『心脳問題』と第三アンチノミー

『心脳問題』では心脳問題――心と脳の関係についての問題――の争点を‘第三アンチノミーの問題’だとし,そのエッセンスは‘自由が存在するか否かの問題’だとする:わたしたちの心が脳の活動によって規定され,そして脳の活動が自然法則に従うものであるとするならば,そのとき私(たち)の自由はどこにあるというのか.私たちの自由意志は錯覚や空想にすぎないのではないか.
問題をここまでシンプルにすることには少し異論もある.そもそも「自然法則」や「自由」についてのカントの考え方が,私たちのそれと全くのイーコールではないからだ.しかし,それでも問題のエッセンスの抽出としては正当であるように私はおもう.

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第三アンチノミーの正命題‘世界は自然法則に還元できない.自由が存在する’と反対命題‘世界は自然法則に還元できる.自由は存在しない’.カントはこれらの命題がともに妥当性をもつことを示す.では‘自由が存在し,かつ存在しない’とでもいうのか.ここでカントの言葉を参照しよう(『純粋理性批判 中 (岩波文庫 青 625-4)』p.218):
人間は感覚界の現象の一つである;人間は他のあらゆる自然物と同じく経験的性格をもつ【人間だって他の自然のものと同じく,見て聞いて嗅いで触って,あるいは測って,そうした経験によって(のみ)その性質を知ることができる存在だ】.そして無生物や動物については「感性的条件だけによって規定されているような能力しか思いみることができない」.つまり見聞きし測定できる条件によって規定されるとしか考えることができない.しかし――

全自然は、感官によってのみ人間に開顕されるが、しかし人間は自分自身を感官によるぱかりでなく、また純粋な統覚によっても認識する、しかも感官の印象とは見なし得ないような行為や内的規定において自己を認識するのである。要するに人間は、一方では確かに現象的存在であるが、しかしまた他方では――則ち或る種の能力に関しては、まったく可想的な対象である、かかる対象としての人間の行為は決して感性の受容性に帰せられ得ないからである。我々はこのような能力を悟性および理性と名づける、取りわけ理性は、経験的条件を付せられている一切の力から区別せられる、そしてこの区別はまったく独自でありかつ極めて顕著である。


人間は,一方では自然の物とおなじく「現象的存在 Phaenomenon」である.しかし人間の行為や判断は「感性」【Sinnlichkeit, sense】によって受容されるセンスデータや,食欲や性欲といった欲求に従ってのみ,いわば‘刺激-反応図式’にしたがってのみなされるわけではない.そうしたことをなす能力を「悟性」や「理性」と呼ぼう.「悟性」や「理性」そのものは「現象」にはあらわれない.それらは経験によっては‘ある’とも‘ない’ともいえない,そうしたものだ.センスデータによってはその存在の肯定も否定もできないものを「可想的 intelligibel」な対象【可想的存在 Noumenon】と呼ぼう.‘「悟性」や「理性」をもつ人間’ってのは,そうしたものだ.

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悟性 Verstand:英語では understanding.「知性」にあたる.ラテン語 intellectus ← intelligo(理解する)より.‘媒介を経ないで全体【たとえばある概念】を一瞬で把握する能力’.
理性 Vernunft:英語 reason に対応.ラテン語 ratio〈比〉より;‘比較して考える,理詰めで推論して考える’能力
参照:黒崎政男カント『純粋理性批判』入門 (講談社選書メチエ)』pp.61-64

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人間の行為は,そのような「悟性」や「理性」によっても規定されている.とくに道徳的な行為(あるいは判断)がそうだ.経験的に知られる快不快の感覚や損得勘定などとはかかわりなく「〜〜すべきである」という思いが浮かぶとき,そこには「理性」の働きが現われている.「理性」の働きは感覚的に知られるモノゴト【自然】によっては規定されない.

ところでこの〔実践〕理性が、原因性を有するということ、――少なくとも我々はこの理性についてかかるものを思いみるということは、道徳的命令の方式即ち命法(Imperativ)にかんがみて明白である。道徳的命法は、我々があらゆる実践的〔道徳的〕な事柄において、決意し実行する力に規則として課するところのものである。『べし(Sollen)』の表現する必然性と、根拠との結びつきとは、全自然のなかでもほかには決して現われてこないような種類のものである。
……この『ぺし』は、自然の経過だけしか念頭におかない人〔自然学者〕にとっては、まったく無意味である。我々は、『自然において何が起きるべきか』と問うわけにいかぬ、それは『円はどんな性質をもつべきか』と問うのと同様に不合理である。我々が問い得るのは、『自然において何が起きるか』、或は『円はどんな性質をもつか』ということだけである。
……私をして『欲する Wollen』にいたらしめる自然的根拠がいかに数多くあろうとも、また感性的刺激がどれほどあるにせよ。これらのものはついに『べし』を生ぜしめない。
(pp.219-220 より)


以下,カントの論をいいかげんにまとめよう.
経験的・自然科学的に知られうる人間には自由はない.自然のあらゆる現象は自然法則にしたがう.だから自然現象として把握されるかぎりの人間(ヒト)には自由はない.
しかし私たちは『べし』に従って行為する.そうした『べし』にしたがって自分や他人の行為の是非を問う.人間には自由【自律の能力;自らによって自らの行為を規定する能力】と責任があると考える.
ヒトが自然法則に従う存在だという考えと,ヒトが自由と責任を具えた存在だという考えのあいだに生じる矛盾(アンチノミー)を解消するために,以下のような仮定を設けよう
:『べし』は自然法則に還元できない.『べし』と命じる対象Xは自然法則に還元できないモノでありながら現にヒトの行為を規定する.そしてその対象Xを人間は具えている.

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【その『べし』という‘良心の声’ですら,たとえば‘飴とムチ’による行動の条件づけ,心身の飼‐育による規範の刷り込み,それに応じて展開 = 発達した脳神経系の活動によって生じたものではないか.とすれば,たとえ『べし』だろうと自然法則に還元できるはずだ――という反論もあるだろう.
しかし,自然科学的アプローチがその『べし』を規定するわけではない(自然科学者にとって『べし』は無意味だ).そして日々の生活の実践において,私たちはこの『べし』に照らし合わせて行為や判断をおこない,それに従い,あるいは従わない能力が人間に具わっていること――自分や他人には自由がそなわっていることを前提に生活している(だからこそ,嘘をつくという行為の責任を嘘をついた当人に帰す,といったことを当然にしている)】

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カントはいう
:ここで示したのは「自由は、自然必然性におけるとはまったく種類を異にする条件に関係することが可能であるから、自然必然性の法則が自由を触発するということはない、従って自然必然性の法則と自由とは互に無関係に、また互に妨害し合うことなく成立し得る」ということだ.「これまで説明しようとしたのは自由の現実性 Wirklichkeit ではない」「自由が可能であるということさえ説明しようとしたのではない」.
:自由という理念が現象(自然現象)として聞いて見て触って確かめることができる(さもなくば自由はない)という考えは,自然法則――あらゆる自然のモノゴトは他のモノゴトによって規定されるという法則――をみとめる考えと矛盾する.「かかるアンチノミーはけっきょく単なる仮象に基づくものであるということ,また自然は自由による原因性と少なくとも矛盾しないということ,――これが我々のなし得た唯一のことであり,また我々の唯一の関心事であった」(pp.228-229)

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先に,第3アンチノミーをなす二つの命題がともに真であるというのなら,ではカントは‘自由が存在し,かつ存在しない’と主張するのか(それは矛盾だ)という旨のことを記した.この疑念にたいしては,‘ある対象が存在し(B)かつ存在しない(¬B)’という命題 [B∩¬B] の矛盾は,そもそも‘存在する’という語を等しい命題とすることに由来する.そうした考えこそが矛盾のもとなのであり,‘自由は存在し(S)かつ存在しない(¬B)’[S∩¬B] と考えることによって,その矛盾は解消できる――このように答えることができるだろう.
【このように考えると,では‘存在の二つの次元(領域)’があるのか,などと夢想してしまう.『心脳問題』(そこで言及されている柄谷行人『倫理21』の指摘)を参考にすればさにあらず,そこにはいわば「人が物事を考えるさいの二つの態度が反映されている」のだ,とのことである】

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『心脳問題』ではカントの‘第三アンチノミーの問題’をシンプルにまとめたのち,それを応用して心脳問題における4つの立場(唯物論,唯心論,二元論,同一説)をザックリ整理する【省略】.そして以下のように論じる:心脳問題はカントが述べるようにアンチノミーな問題,出口なしの問題なのだ.それはしかし,日常の経験と科学による記述を同列にならべることによるカテゴリー・ミステイク(G.ライル『心の概念』)によるものであり,これらの記述(世界の観方,世界への態度)はCGのレイヤーのように「重ね描き」(大森荘蔵『知の構築と呪縛』)されるもので,どちらが本当の,あるべき姿(あるいは態度)かと問うことは見当違いな問題設定(擬似問題)なのだ.しかし,それでもなお私たちは心脳問題を問わずにはいられない――となれば,そもそも私たちは‘なぜ’心脳問題を問うのか,どのような回答を欲しているのか,そこには私たちがおかれた社会のどのような状況が反映されているのか,そのように私たちは問いをすすめるべきであろう.

(おしまい)