2人ゲーム

真っ黒な闇の中に溶けてしまう.心なんて何処にあるというの――

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‘心をさがして動物を解剖していた女の子が,こんどは動物(その怨霊)から解剖されてしまう’そのとき,動物たちはその子にこのように告げる:「私達,アンタの心が知りたい.今度はあんたを殺りたいな」.
母親も先生も嫌いでなぜならばそこに「真っ暗な闇」を持っているからだというその子は,「おなかの中にしまっている」「本当の気持ち」を見つけるために生き物を殺す.その是非を判ずるなれば,そりゃー悪いことだ.そんなことをしたのであれば因果の螺旋,殺されたって文句はいえないさ.あはは.ただし――動物たちはその子にたいしてこのように告げる:「私達,アンタの心が知りたい」.それは(どちらかといえば)‘愛’のことばだ.
【言葉がみつからないはずの動物たちに言葉を与えてみれば,彼女らは‘あなたを知りたい’という気持ちを言葉にする】【闇のなかにあるはずの心を見たいと願っていたその子にたいしては,それこそがこの顛末における‘救い’であり,だからこそ,その女の子は耳朶を食まれるにいたるまで(戸惑いながらも)彼女らの接近を許してしまう】【‘ワタシはアンタを愛している,でも,よくわかんないんだけど,ワタシがアンタのなかに愛しているのはアンタ以上のもの――対象 a なんだ.だから,ワタシはアンタを切り裂く Je t'aime, mais, parce qu'inexplicablement j'aime en toi quelque chose plus que toi ―― l'objet petit a, je te mutile.’「ジャック・ラカン 精神分析の四基本概念」p.362】【もちろんこれは私の解釈であり,それゆえその動物たちの言葉は,むしろ私にとっての救いである】

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マボロシにとらわれたアナタはいったい「何をみているのだ」’と問うとき,その問いは‘アンタの心が知りたい’という欲望に転化する.
アナタが見ている景色,アナタが聞いている音楽やざわめき,降りそそぐ電波,うわさ話に罵詈雑言――そんなものは現実にはありません.すくなくとも私には聞こえません.見えません.周りの皆もそういいます.しかしアナタは確かな‘リアリティ’をもって声や風景の実在を主張する.いったいアナタは何が言いたいのですか.嘘をついているんですか.他に言いたいことがあるから誰かが自分のことを馬鹿だというと,そう私たちに告げているんじゃないんですか.それとも‘本当に’聞こえているのですか.‘私達,アンタの心が知りたい’.そこで私はアンタを切り裂く.切ってバラして並べて比較し推し測る:
「どんな感覚体験も頭のなかで作りだすことができる.耳鳴りは外からの刺激がなくても,聴覚野からの刺激で起こる」「幻聴でよく聞こえるのは,人間の声である.精神分裂病の患者を調べたところ,幻聴として聞こえてくるのは,実は自分の声だった.脳のある部分が発した言葉を,別な部分が聴覚情報として受けとっているのだ.正常な脳だと,発話する部分を監視していて,言葉の認識部分が活動しているときだけ信号を送るようにしているから,このようなことは起こらない.だから自分の声と他人の声を混同しないですんでいる」(「ビジュアル版 脳と心の地形図―思考・感情・意識の深淵に向かって」p.185)【これは「どうすればよいのか」を学びたい私にとって,とてもすばらしい成果だ.次に私が知りたいのは‘ではなぜ(どのような条件下において)そのような‘声の再生’が起こるのか’ということだ.】

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脳解剖やfMRI,さらには広く脳科学一般による心へのアプローチには違和感がある.そうしたアプローチは結局のところ‘心なんて何処にあるというの――’という多分に感傷的(自己陶酔的)な呟きに帰着するのではないかと感じている【だから‘心’なんて錯覚にすぎないというのだろうか.ならばアナタの見聞きすること思い感じること,すべて必然として錯覚の所産だ.砂上の楼閣だ.そんな安普請の答えに安住しているアナタに何がわかる】【と自戒をこめて】.
あなたの見聞きしているものを知ること,あなたの心を知ること,そのためのアプローチの一つとして心を産み出す物である脳を調べること【すくなくとも,脳が欠けたヒトには私たちが‘心’とよぶ現象があらわれない】,それは「ワタシを含めたヒトビトには共通して脳がそなわり,脳の活動と‘心’の活動には(すくなくとも近似的に)1対1対応の関係があり,それゆえにヒトビトの脳の活動を比較することによって,ワタシは(ワタシの‘心’から類推して)ワタシならざるヒトビトの‘心’を知ることができる」という仮説をおくかぎり,‘心’を知るための強力なアプローチであるだろう.そうして脳科学のアプローチによる成果はこの仮説の確からしさをいや増しに増すばかり.‘21世紀は脳の世紀だ’という大見得についても‘諸手をあげて賛同したがのちに外れクジを引かされたことがわかってガッカリ’なんてことはなさそうである.
しかしそこからさらに疑念が生じる.それで脳の活動がすべて分かったとしよう.その先に生じるのは‘さて,ところで‘心’とは何だろう’という問い――アナタはいったい「何をみているのだ」という問いの回帰だ【うまくいえない.ただし例えるならば,‘ディスプレイの仕組みと現にそこで生じている動作(物理的なプロセス)が全て解明され・モニタリングできるとして,それによってそこに表示されている画像が何を(観る人にたいして)意味しているのかまで分かるのだろうか’という問いであり,また少し問題系はずれるが,ゲノム解析ののちに‘やはり生物を知るためにはプロテオーム解析こそが必要だ’とする,そうした問いの移動が脳科学の先にあらわれるのではないか,という予想だ】.

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‘心’を知るためには脳科学しかないのか.それとも,心を知るためには心理学なのか.
しかし心理学といっても,それが客観的・科学的・実証的であろうとするほど,皮肉なことに‘その人にとっての体験そのもの’ではなく言葉(質問への答え)や観察・測定されうる行動(マウスの動きや眼球の運動,神経の電気活動)を手がかりにすることになる.それは「何をみているのか知りたい」という私の欲望にとっては不十分な・間接的なツールでしかありえない.
……これは,仕方の無いことかもしれない.ワタシはアンタとはちがう.所詮は他人同士.他人の心をそのまま体験するなんてできるわけがない.

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しかし,手段を自然科学に限らなければ,まだ手があるかもしれない.