帰郷

「ハーフムーンが無くなっても、語り手の心の中にはハーフムーンが「もう無い場所」として生き続けているわけで、私がトラウマを克服した今、トラウマに惑わされ、苦しめられていた場所に戻ることは一切できません。」という箇所に触発されて.
関連:id:somamiti:20050602

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トラウマを克服した今,トラウマに苦しめられていた場所に戻ることは一切できない. その一方,ハーフムーンが無くなっても,語り手の心のなかにはハーフムーンは「もう無い場所」として生き続けている,という.
もともと「ハーフムーン」という場所など無く,それは造られたものだったのではないか.語り手が大切なナイフを折ることで‘戦い’を捏造してみせたように(そうしてそれこそが語り手の‘トラウマ’の中核であるように感じる).

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▼「異国への帰郷」『無意識の組曲―精神分析的夢幻論』より:
第二の夢は帰郷の夢だ.ナレーションが言うような「人生に立ち帰ること」とは,少しずれているのではないか.帰郷ということは,たとえ死者という形においてであれ,そこに親が居るということを無視しては考えられないのではないか.夢の中で,ドラに配達された手紙の文面を振り返ってみよう.
「パパが死んだ今,帰りたければ帰ってきてもかまいません」.
ドラは,皆と一緒に墓地へ行く代わりに,部屋へ上がって本を読む.したがって,この本は,父親の遺体に代わって,ドラの前に現われたものだと考えてよいのだ.映画では,ドラの第二の夢は「事実上,父親から離れ,人生に立ち帰ること」を示すと解釈されている.確かに「事実上」は,ドラは父から離れた.いかにもそれは父が死ぬという夢だったのだから.しかし,…….より正確に言えば,「父」によって示された自己の真理に立ち会うために,彼女はそこに帰ってきたのである.……そこでこれから自己になるために,彼女はその場所を選んだ…….コーションはその場所で自己に「なる」つもりはないらしい.…….ドラと違って,コーションはその「本」を開いて見ようともしない.彼はこれからどうしようというのだろう.
「原光景」という「現実」は「そのものとしては,もう無い」.この「無いもの」こそが精神分析の「現実」なのだ.(「虫かごの帰宅」)

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‘トラウマ’的なものに関してもう1つ.無数の傷を負いながらも笑っているというイメージが‘強い人’にたいするものとしてある(あるいはデクノボーのイメージか).
いくら笑っているといっても,あなたは笑っているのだから,その笑っているということがあなたが傷の痛みを覚えていることのサインでもあろう.しかしあなたは私にたいして笑っている.それは私への慰めであり防壁なのだろうか。‘気遣ってくれてどうもありがとう。でも,この傷跡が醜いことはわたし自身が十分承知している。だからあなたの無遠慮な視線でかさぶたをはがすのはやめてね’ということなのだろうかともおもう。
とはいえ,このように妙に気を回すのも自縄自縛か.