ずれ

トラウマを癒し忘却し埋葬すること,あるいは色あせ古びてゆく思い出の領域に傷跡を追いやるための弔いをすること.語り手はそれを成さない.あるいは成しえない.なにがしかの感じやすさ Empfaenglichkeit ゆえに.
id:somamiti:20050602

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そのように私は書いた.忘却しないこと、忘却できないこと.それを私は感じやすさのゆえにと書いた.それが脆弱性ゆえのことであろうと,あるいは自らの意志によってなされた態度の決定であろうと,私はそこに一つの倫理を感じている。一つの美しさを感じている.それはおそらく人びとが忠犬ハチ公に向けるまなざしとおんなじだ.忘却できないこと,状況の変化に適応できないこと,一つの形式に囚われ続けること,そこに殉じるという姿勢をみいだす.不器用さや愚かさを純粋さと等しいものとみなす(それは実際,等しいものかもしれない).そのようにして狂気を美化してしまう癖が私にはある.

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ロマンティックな狂気は存在するか (新潮OH!文庫)という問いかけがある(そういうタイトルの本を読んだことがある.内容は忘れた.当時はあたりまえに下らない本だと思った.しかし今おもえばこうした見方の歪みに気づかせてくれる本だったかもしれない.閑話休題).ロマン主義について明確なことは知らないが,この私の狂気観はロマン主義的な色彩を濃く帯びているように感じる.狂気を徒に美化すること.
世界は汚れている.この世界で正常に生きているほうがどこかおかしいのだ.濁った水のなかで生きるには泥を喰らわねばならない.泥を喰らいつづけていることに鈍感であるからこそ私たちは生きてゆくことができる.泥水に適応することができる.それはとても簡単なことだ.けれども感じやすさ,脆弱性を保ちつづけている個体にはそんな簡単なこと,そんなあたりまえのことができないのだ.お酒ばかり飲んでいるおじさんは本当はやさしい人なんだ.こんな馬鹿げた世界で生きてゆくなんてとてもシラフじゃできやしない.こころがきれいな人はこんな世界じゃオカシクなるしかない(ではどんな世界ならあなたはおかしくならずに生きていけるというのか.おそらくどのような世界であろうとそこが人間の世界であるかぎりまともに生きてゆくことなどできやしないだろう).
濁流のなかに泥にまみれてありながら(ありもしない)故郷の清流を夢にみる.エデンへの想いに枕をぬらす.そうしたロマン主義的なあこがれの延長で狂気を賛美する.狂気におちいるものを,故郷への憧れを同じくするものとして,あるいはグレートヒェンのフィギュア(形像)として,一つの型に閉じ込めてしまう.
おそらくこうした型にはまってしまう狂気もあるだろう.てんかん様の発作をあらわす古典的ヒステリー者のように,狂気にたいするこちらの期待(欲望)を先取りしそれを体現するような狂気があるだろう.それがやっかいなところだ(――狂気のモデル,モデルケースとしての患者.トラウマを巡る言説のやっかいな点の一つはここにある.かつてのトラウマを探しだそうという試みがかえってトラウマをつくりだす.トラウマへの期待が,その期待に応えるべくトラウマをつくりだす.問題はトラウマの実在ではなく,トラウマへの期待に応えようとするあり方かもしれない.しかしこの類いの論は反論を呼ぶ;こうした論はトラウマを隠蔽しようという男根主義者の屁理屈に過ぎない.そうかもしれない.しかし過去の体験の有無を巡る問いと現在の人格の構造についての問いは別の問いであると考える).
話がズレた.こんな聞き覚えのある理屈を書き起こしたかったわけではない.

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死を忘却できないことに美しさをみている.それは私の欲望の反映であるようにおもう.忘れないでね、ちゃんとみていてねということだ.かつての共同体には既知外の居場所があったという.いまはそうした場所がない,それは問題だという話はまた別の話で,そうした居場所やそこに住んでいた既知外について語るとき,そこにあるのはそうした居場所に何時でも住んでいて何時までも何時までも私をみてくれているものへのノスタルジーだ。それは知恵遅れの幼女だったり日々自転車でのパトロールを怠らない青年だったり奇矯な身なりの太った老嬢であったりアル中のジジイだったりする.あるいは忠犬ハチ公.いつもそこからみてくれているもの.そこから動くことができないもの.お墓。動物。老人。あるいは子供。
忠犬ハチ公の話までここにまとめてしまうのは行きすぎかもしれない.いずれにせよ、)パターンに押し込めている。それも無自覚に。それが嫌だ。そうした癖に気が付かないのは鈍感でもある.こうした見方や欲望が狂気というありかたを固定するよう作用することもあるかもしれない(とはいえこれも考え過ぎかもしれなくて,そのようにおもうと狂気的なものにたいしては今後は一切の心理や思弁を排し,生物的な面の関与に徹したくもなる.とはいえ、それで事たれりというのもまた一つの見方――というよりも欲望のあらわれだろう.重要なのは自らの見方のパターンとその作用を自覚することなのだろう.これもまた常々どこかで聞いている話)

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トラウマを抱えること,トラウマに殉じること,そのように美化すること.そうした視点は(すくなくとも物語において)トラウマを抱えたものが‘少女’であることと関連をもつようにもおもう.たとえば/あるいは魯迅の「狂人日記」の終わりに‘まだ人を喰ったことのない子供はいるかもしれないではないか。子供を救え’という叫びが記されていた.実はすでに人喰いであった,人喰いの仲間であった己の身を自覚することで,あらためて‘子供を救え’と叫ぶ.その子供とは,おそらくは語り手自身のことだ.
主人の死を理解できない犬。あるいは主人の死に殉じた犬.そうした犬への賛美あるいは同情の念.それは親にほおっておかれて餓死した乳幼児にむける感情と似ているようにおもう.そして,そのような犬や子供の‘寄る辺ない’姿はそれをまなざすものの写せ身でもある.
あらためて精神分析の概念を借りて考える.人びとは誰しも赤ん坊のころにそうした寄る辺なさを体験している.授乳者の不在による飢えや不快感(あるいは寒さや喪失感),そうしたものを多かれ少なかれ体験している。そしてその不在に耐えるべく,Fort-da 遊びをはじめる(参照:「快感原則の彼岸」)。糸巻きを投げては手繰りよせる在-不在遊び.その糸巻きは‘いってしまった(Fort)‐かえってきた(da)’母親のシンボルだ.糸巻き.自らとの関係において母親と同一の項を占めるモノ.その意味においての母親の代理物.その代理物の在-不在を意のままに統御することにより,子供は母親の不在に耐える.母親の不在において自らの肉体を苛む不快感を統御する.

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(ホンモノとニセモノを混同することができない.ニセモノを自らの意のままにすることで不在に耐えることができない.ホンモノを忘却すること,代理物で満足すること,そのように鈍感であることができない――という点に,感じやすさや美しさを看取している――のだろうか)(そのようなものは,私の代わりがあらわれてもそれに騙されることなく私を待ちつづけていてくれるだろう――とでもいいたいのだろうか)

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精神分析の概念を借りて考えごとをはじめると概念に振りまわされてどうにもいけない.結局なにを書きたかったのかを忘れてしまう.しかし6月20日に記したメモは9割がた消化されている.その時に書きたくなったことは,おそらくここに書かれているでしょう.

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追記:「〜〜半月」の語り手もまた,トラウマに囚われたまま人生を過ごしてはなかったのかもしれません(あるいは,ほんとうにハーフムーンから逃げだすことのなかった/できなかった者たちはその場所に殉じるほかなかったのかもしれません).だからこそ,人生の終わりになってハーフムーンを想いだすことに‘後悔’を伴っているのかもしれません.‘私はあれからずっとハーフムーンのことを想いつづけていたのだ’と(あのときと同じように嘘をついて格好をつけて)赦しをこうているのかもしれません(そうしてそのことへの自覚がさらに悔恨を伴う).