夢の終わりに

ゲームのことを考える.あるいはファンタジーとリアリティ(リアルっぽさ)のことを.そうして夢のことを考える.
ゲームのなかの世界は閉じている.そこにはエンディング(ゴール)がある.すべてのことは幸せなエンディングのために.あるいは真正なるエンディングのために.ゲームにおいて何らかの目的〔たとえば勝利〕を達成する.するとゲームは終わる.ゲームはエンディングに辿りつく,そうして終了(エンド)することができる
【余談:ゲームにおける‘われわれ’の目的を aim(目的,狙い,照準)とし,ゲームにおいてたどりつく(そこに至ることがゲームの構造において規定されている)エンディングのことを end (終わり,最後,果て)としてその違いを明確にすることで、別の問題系がひらかれるだろう】.
ゲームにおいて‘われわれ’がであう現象は目的(勝利条件)との関連のなかで価値づけされる.敵(障害)や味方,目的達成のための手段,ゲームをクリアする(目的に達する,ゴールに達する)ためのアイテムやスキル,戦術に戦略,契約に選択に友情に愛情,and so on.すべては目的にたどり着くための手段(あるいは障害)でしかない.
なんてつまらない.やがてゲームは終わる【その点で‘クリアする’という語は示唆的だ】.終わりのあとには‘リアル’がある.ゲームにおいて目指される目的はゲームのなかに埋め込まれたものだ.それはゲームの外においては何の価値ももたない【ここには異論があるだろう.たとえばサッカーというゲームから人生を語るような視点においては【しかし,そのことによってそれはゲームではなくなる】】.ゲームのなかでいかなる高みへと到達したところで,それは‘リアル’においてはいかなる歩みでもない.だからゲームにおけるあらゆる現象は‘リアル’にあっては空虚な空騒ぎだ(目的のない,あるいは空虚な目的のための行為だ).

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そして,このリアリティ(現実性)とファンタジー(幻想)の関係は容易に反転する.ファンタジーに重心をおくのであれば――そこからリアリティをみるのであれば,むしろリアリティのほうが空虚な騒ぎだ.そこに価値はない【価値はある尺度にそって測られる;それは彩度やものの重さのようなものだ.‘何を測定するか’が設定されてはじめて価値の有無や大小を評価することができる.ではその尺度(評価軸)の名前は如何ように設定されるのか.たとえば個人の尊厳,個体や種(あるいは国家)としての適応性・生存能力などがひろく受け入れられる軸であるようにおもう】.
この関係の形式は,彼岸(あの世,かなた)に重心をおくこと;彼岸に自らの視点を設定することで此岸(この世,こなた)の出来事のすべてが空虚にみえるという関係の形式とアナロジー(相似)をなす.【ゲーム的に‘現実’を割り切る,単純化するという視点は,それゆえ,いわゆるゲームに先立って人びとに備わる性質のものだろう】.
ゲームのプレイヤーは一方でリアルな足場をもつ.だからこそゲーム世界を容易に俯瞰視点で把握することができる.ゲームの外部にいるからこそゲームにたいして神さまの視点を容易に得ることが出来る.そもそもゲームはそのことを前提している.それゆえゲームの最中において,ゲームのプレイヤーはそこに居ながらにして居ない.
居ながらにして居ないというこの二重性――自己反省という性質(自己言及性),あるいは精神の超越性(――メタ・フィジクス),それは自律した主体 = 行為者(自らによって自らを律するエージェント)であることの二重性である.この二重性は近代的主体すなわち自律した主体であるかぎりにおいて‘われわれ’が具えざるをえない性質である.

【ここで‘近代的’と銘うつことに必然があるのか否かは据え置く.たとえばホメロス叙事詩の読解から古代の人びとには近現代の人びとが考えるところの‘心’はなかったとする論があるという(残念ながら文献は失念.その文献では否定的に引用されていた.たぶんピンカー「心の仕組み」などの系統).してみれば‘われわれ’の自律したありかたは近現代(デカルトやカント以降)に特有のありかたといえる.一方,いわゆる無意識とされるトポスは宗教的な在りかたをする行為者にとっての‘神’と,同じトポスを占めるという見解がある(例えばダイモンの声に従うソクラテス.参考:「フロイト = ラカン」など).この見解によるならば,そうした‘心’のありかたの違いは,自らの行為の源泉を〈自-分〉という区分の内部に置くか,それとも外部に定位するかの違いであるといえよう.それは‘心(心的機能)そのもの’よりも‘心についての観念’の違いであるようにおもう.たとえば情熱をパッション passion( ← passive)と呼ぶことにその名残がみられる観念.passive に与えられたものでありながら,その情熱は‘あなたの気持ち’や‘わたしの気持ち’でもある.‘あなたの気持ちを明らかにしてください’と要求されたときに感じる戸惑いのもとがここにはある.なんの謂いがあって‘わたしの気持ち’などということができるのか,気持ちがわるい】