離人症

離人症の病理,それはたとえば主我(見る自分)と客我(見られる自分)の乖離だとされる.自分の体が,感情が,行動が自分のモノではない,自分が為していることではない,自分は感じることができない,などという病者の語りにあらわれるのは,病者が「自分」を対象化しているということ,自分をさながら空の高みから見下ろしているということだ.それゆえに近年の分類では離人症は解離性の健忘や夢遊病,多重人格などとともに解離性障害にカテゴライズされることもある.
たとえば離人症者は以下のように語る:
「私は自分自身ではありません.私は自分の存在から離れてしまいました.考えることも感じることもできません.…….私が空虚そのものになっているのです.…….私は空虚ですから存在しないのです.私の自己がものすごい速さでどんどん遠ざかって行きます.…….追いかけているのが空虚な私で,どんどん逃げて行くのは昔の私,本当の充実した私です」
病者の訴えにおいてはワタシN(今)とワタシP(過去)との乖離が語られる.私(N)はいつまでたっても本当の自分(P)においつけない.本来の自分と一致しない.
しかし,それを病者が‘誰か’に語っているとき,その語るワタシ(X)はどこに定位されているのか.
ワタシとワタシの乖離に悩むこと,今のワタシには何かが欠けていることに悩むことは,かつての欠如のない,充実した状態を前提している.(そのような充実した状態はフィクションかもしれないが,ともあれ)訴えるワタシは充ちた状態がどのような状態かを‘知って’いる.だからこそ今が欠如態であることが‘分かる’(この点において,訴えをなす離人症者,ひいては喪失感に悩む離人症者は,その語りのなかにすでに‘治る’可能性を提示しているのだと(私は)考える).
なお,何等かの器質的病変による知覚障害が,離人症の原疾患として想定される場合もある.しかし大半の離人症は臨床検査で検出可能な器質性病変をともなわない.

離人症者の語りにおいてはワタシという‘名’によって何かが区切られており,そしてそのワタシと今のワタシとの隔たりへの自覚が病的なものとなる.‘ワタシ’と名指すことで,ワタシは語り手から距離をおかれることになる.切断されてしまう.

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昔のメモより抜粋.
(どのようにしてヒトはワタシを‘ワタシ’という語で指示する能力を獲得しているのか.そのような仕組みを獲得したことによりヒトの‘精神’なり‘神経’なりはどのような変化を得ているのか,そしてまたそのような変化があるとして,それは他の精神疾患と関連はあるのか,あるとすればどのようにか.興味深い)