「ハルヒ」シリーズ

当初,「ハルヒ」シリーズには小説についての小説,いわばメタ的小説という印象があった.しかしシリーズの後半(5巻の「雪山症候群」あたり)で主人公たちのグループであるSOS団が「われわれ」として位置づけられ,さらには「われわれ」に敵対する「敵」が登場人物として現れる(実体化する)に至り,その印象は薄れていった.この後は「SOS団」と「敵」との物語の行末( = 未来)を巡る戦いがあったのち,おそらくは1巻末〜2巻冒頭の展開を反復するかたちでSOS団はSOS団の日常に回帰する,というストーリーが語られるだろう.「敵」や「組織」の実体化とともにシリーズはメタ的ではない小説(「出来事」についての小説)へと転化してゆく.しかしこれもまたハルヒの設定の忠実な反映であるようにおもう.以上,‘ためにする’感想.

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メタ小説――たとえば「敵対勢力」や「組織」,あるいは「世界」「作者」「物語」についての小説――において,それらのキーワードの意味が充実されたとき;それらの示す事柄が具体的な設定や登場人物として実体化したとき,メタ小説は小説に化してしまう.そしてその作品は,世界や人物が詳細な設定によって徹底的に実体化された作品(たとえば“ガンダム”のような作品)と同次元における比較によって,‘単なる薄っぺらな(ライトな)ノベル’という印象をもたらすのだろう.

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このような発想は大塚英志東浩紀の(古典的な?)評論を参照しているだろう.

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「世界」についての(近代的な)「大きな物語」は失われ,ただ「大きな非物語」すなわち「データベース」を「私が読み込む」という(ポストモダン的な)世界像.「大きな物語」はもはや必要とされない.しかしながら「読み込み」による把握が可能であることは,そこにおいてなんらかの物語形式が機能していることを示しているようにおもう.データベースに登録された属性はただ「名」のみであっても.

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【そういえば「大きな物語」が見出せないにもかかわらず細部の“リアリティ”を感じる小説――たとえば安部公房の小説のおもしろさ,あれは何だろう】

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【中断】