夜になっても

また、中学の同級生の男の子が今は十九か二十歳になっていて、あのガキどもが……と感心させられているのだが、優等生と自他共に認めていた連中にかぎって、肉付き立派に若太りの右翼になってるのは不思議である。こういう連中は決してフーテンになる気づかいはなく、同世代の堕落を憂えるという大真面目な偽善か、テンデ気にしない徹底した利已主義ぷリ。また、優等生でもなく、フーテンの仲間に入る程の勇気(?)も持ってない大多数の若いのがいて、マガジン・フォー・メンだの女性週刊誌を熱心に読んで、今様の理想的サラリーマン像を追求する。彼らの理想像というのは、仕事はバリバリやって、夜は夜でスマートに遊び、遊びの余韻を翌日の仕事に残さないといったていのものなのだがこの現代的スマートさに同調出来ないひと握りの非適応的なガキどもは、漠然とした絶望と無力感をひき受ける他ない。
(『夜になっても遊びつづけろ』)

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『夜になっても遊びつづけろ』が予想以上におもしろかったのでひさしぶりに金井美恵子の本を購入しようと検索をかけたところ文庫のほとんどは新品では入手できないようだ【単行本は場所とりだしアマゾンでの古本購入は送料がかかるのがいやだ】.とりあえず『噂の娘』を購入.

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川端康成『雪国』を読む.ラストシーンの色彩が畏ろしく素敵.

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大学生協にて参考書のついでに河野哲也『〈心〉はからだの外にある』(ISBN:4140910534)を購入.パラパラめくったところ,ギブソンアフォーダンスとならんでデカルト,「つつぬけ」な自我,フロイトといったキーワードが目にとまったため【しかしこうした本を買いはじめると際限がないようにおもえる】.
内容はおそらく以下のとおり:〈心〉はからだの外にある.〈心〉は表現 Ausdruck,expression される.というよりも表現と同時に〈心〉が立ちあがる.このことは他人への伝達のケースのみならず,独りごとや発声を伴なわない内心の独白においてもかわりない.他人(外 ex)の視点にとっても,自分(内 in)の視点にとっても,〈心〉は外 ex- へと押し出され press ,ドリップされるものとして顕現する.じつのところ express も impress も違いはない.〈心〉が押し出されてくるその源泉はどこにあるのか.その発現プロセスを express とするならば,その源泉は「からだ」(脳)や「わたし」のなかのin 秘められた場所に,プライベートな内部空間に位置づけられることになる(逆に,impress されるものの源点は「外」に設定されるだろう).しかし,この位置設定は変更したってよいだろう.「からだ」や「脳」がなければ〈心〉はない.しかし「からだ」のなかに〈心〉があるわけでもない.このことはディスプレイの内部にCGがあるわけではないことと似ている.あるいはまた記号(その音声や図像の成分)の内部に意味(概念,指示対象)があるわけではない.CGはディスプレイの外部から「見られ」ることで現れる.そもそも何が〈心〉で何が〈心ではないもの〉なのか.その境界はとても曖昧で「人為的」だ.さながら発酵と腐敗との境界のように.〈心〉とからだの関係はコメと麹と酵母とアルコールとの関係ににている.脳は〈心〉を分泌する.そして自らが分泌した〈心〉によって脳のはたらきは規定される.
――展開が苦しくなったので略.友人から勧められた石川雅之もやしもん』というマンガが面白かったという話題につなげたかった.

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……ところが、何もしない、ということはこういう世の中では立派に反社会的なことである。反社会というのは、何も人殺しとか盗みとか暴力とかではなくて、現行の社会通念では理解することの出来ないすべての行為なり考えなりを指すのだから、世間は決して反社会というのを許すはずがない。新宿駅前の通称グリーン・ハウスに集っている少年少女たちを見て行く通行人たちの眼付きときたら、わたしの友達の詩人が、「とても人間が人間を見る眼じゃないよ」と評したとおリで、こういう残酷で卑屈でイヤラシイ眼付きというのは、めったに見物できる類のものではないだろう。彼らの冷たい眼に鍛えられてフーテンたちが彼らの反社会性を武器にするほどまでに、強くたくましく育って行くだろうというのは買い被りである。彼らは無防備で貧しい絶望的なガキどもなのだ。彼らは平和な文明が安あがリに発明した、ひと握りの生賛で、平和のシンボルだ。
金井美恵子「若者たちは無言のノンを言う」(1967・11 婦人公論))
【絶望的なガキとして,これが40年ほど前の文章であることが少なからず愉快だった】