飛行夢(そらとぶゆめ)

自分の死を待っているある日のこと,彼女はふとわたしに向かってこう言った――先生はやはり真理があると思っているんでしょう…….
それがなくては人類が生きて行けない誤謬としての真理は,生きる躍動を凍結標本に変えてしまう.(pp.8-9)

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『偶然性の精神病理』にかんして先日付けの日記に長々と読書メモを記した.どうにもよくわからない.興味ぶかさを感じる一方,いたずらな思弁にふりまわされているだけのような気もする.一つには内容を「鵜呑み」にし「消化」しきれていないことによるだろう.
以下,偶然性の精神病理にかんするメモ【タイトルとは関係がなきにしもあらず】
わけがわからないといいながら,リアリティ / アクチュアリティの区分をもちいた離人症の規定はわかりやすいと感じる.「行為」「現在」としての「アクチュアリティ」と,「物」の「認識」にかかわる「リアリティ」.離人症者は「実感が無い」という強烈な「実感」をもつ;「アクチュアリティ」がないという強烈な「リアリティ」.

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アクチュアリティ/リアリティの区分,これは「実感」としてよくわかる.しかしながらその延長にある,行為/認識,臨床・実践/自然科学,コト/モノ(対象),生成/存在,ノエシス/ノエマの区分には造りモノめいた臭いを感じる.そうしてさらに,それらの「二項対立」をあらしめる根源的な次元としてのメタノエシス的次元【ノエマ(第3の次元)を現象・成立させるノエシスというモメント(第2の次元)の根源に位置する「第1の次元」】,生き生きとした現在(アクチュアリティ)の根源をなす「匿名的」な「間主観的主体」,存在をあらしめる生成(あるいは力への意志)の源泉にあるであろう「生命」そのもの.このような「次元」が担ぎだされてくることには吐き気さえ覚える:そんな「在り」もしない「もの」を,かってに造りあげてしまって.なんだかそれは「行為的直観」「臨床の知」をことさらに「自然科学」に対置するものとして設定するためのお題目のようですよ.それこそがまさしく「虚構」としての「真理」ではないのですか.

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とはいえ,リアリティとアクチュアリティの「二分法」はよく「わかる」.この思弁には「実」があると感じる.
あらためて離人症をふりかえろう.離人症(と称することのできる)状態における苦しみの一つに「他人の心がわからない」という訴えがある.これは一つの「論理的帰結」であった:「言葉」や「表情」「しぐさ」「雰囲気」……何であれ,なにかを手がかりにして推し測られた他人の「こころ」は,それは〈ほんとうの〉ものであろうか.「言葉」や「表情」「しぐさ」「雰囲気」を手がかりにわたしが判断・推測する「こころ」と他人の〈ほんとうの〉「こころ」とが「一致」することの保証などありえないのではないだろうか.かりに当の本人から直接に「言葉(証言・保証)」を得られたとしても,それはわたしの推測が「虚偽」ではない(「ほんとう」である,「真」である)という保証にはならない【そのうちにMRIなどの画像所見から「ほんとうのこころ」を知ることができるようになるかもしれない(ウソ発見機のように).当人の言葉や私自身の実感よりも「MRIの画像所見」のほうがより「信頼」できるという感覚は,なにを暗黙の前提としているか】.
ここには「わかること」すなわち〈ほんとうの〉ことを知ることへのこだわりがある.それは「認識(判断)と対象との一致」を「真理」とする観方にもとづく.「こころ」を正しく「認識」することは,「こころ」という「対象」(モノ)を「見る」ことを要請する.
頭のなかで思い描いたことは,現実のモノゴトに一致することを確かめて,はじめて「真理」となる.わたしにはあなたの「こころ」を知ることはできない.そうして「当の本人から直接に「言葉(証言・保証)」を得られたとしてもそれが「虚偽」ではない(「ほんとう」である,「真」である)という保証にはならない」ということは,この〈わたし〉の「こころ」にかんしてもあてはまる.いくら〈わたし〉の「こころ」についてダイレクトな情報を得ようとも,それが「ほんとう」であるという保証はどこからも得られない.〈わたし〉の「ほんとうの」気持ちはわたしには「わからない」.わたしの本当の気持ちなど「ない」.わたしの「本当の気持ち」や「実感」だなんて,〈わたし〉からわたしに宛てられた空虚なお手紙にすぎないのです.わたしには実感がない.
【そうだ.私は誰かに手紙を書こう.手紙の宛先は「私ではない誰か」だ.海はきっと見えないだれかにつながっていて,ポストもいまだ知らない世界への入口なんだ.そうして〈あなた〉は私にとっての他者――? / わたし,〈わたし〉が私と別の誰かだったなんて今まで考えてもみなかった.一緒だと思っていた.「誰か」なんてもっと遠くにあるものだとおもっていた】
【わたしのおもうわたしなどどこにもいやしないから / ひとみきえたひとのなかに / ひとりまようだけ / うごめくようにおわりをまつ / ゆめのなかでさえ】【と,ちょっぴりポエミーな引用】

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認識(あるいは真理)へのこだわりのもたらしたこのアポリア.それを破壊する方策の1つは,ここからさらに考えを推し進め,「わからない」という「実感」に「苦しむ」ことの矛盾につきあたり,この矛盾をもたらした前提を廃棄し(たとえ,あいかわらず「わからない」という「実感」があったとしても,それは「真」ではない),さらに「わかりたい」という「欲望」を(その欲望をもつ資格を)自らのものと「認める」ことだった.
一方,このアポリアにたいして木村敏がいきついた解法とは,「行為」あるいは「実践」の次元に立脚すること,ひいては「認識」や「行為」(あるいは「自己」や「時間」)の源泉に位置する「生命」や「間主観的な主体」に目をむけることだった――そのように私は考える.
そして漠然とながら,それはひとつの「逃避」であるように感じる:ことさらに「実践」や「根源」の次元を言い立てたところで,そこでもたらされる「行為的直観」や「臨床の知」,あるいはまた「タイミング」を手がかりとする「思考」や「経験」とはなにか.それは,そのようなスタンスないし視点をもたない「実践」や「経験」とどのような違いがあるのか.そこには違いがあるのかもしれない.しかしそもそも,ソマミチは「実践」や「根源」にたいして十分な「実感」を得ることができない;そのような「行為的直観」や「経験」なるものに「リアリティ」を感じることができない【そもそも「リアリティ」を云々するモノゴトではないのかもしれないけれども】.この感覚は,1つにはソマミチのもつバイアス,スタンスの歪みによるものだろう【人と気持ちを通じ合わせること,モノゴトのタイミングを合わせるということにはとても苦手意識がある】.

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なお,以下のような批判と上記したことの関連については,いまは興がのらないので省略:「直観」や「経験」「行為」「こころ」「生命」は「認識」の対象にはなりえない.それゆえこのような思弁は自然科学(および科学技術)にはなんの利益ももたらさない(意味がない,価値がない).このような思弁はテツガクであって科学ひいては医学(精神医学)ではない.