界面現象

キーワード:タイミング,界面現象,オートポイエーシス,主体の内在という錯視,ゲシュタルトクライス
オートポイエーシスに関して:id:somamiti:20041227,id:somamiti:20041228】
>界面現象としての時間(出会い,タイミング,時間)

タイミングや「間」は,生命環境との「界面現象」としての行為的アクチュアリティである:「生き生きした現在」はわたしたちの時間意識の源泉である.「生き生きした現在」は「わたし」のものでも「かれ」のものでもない(間主観的な)行為のアクチュアリティとして,「過去」の情報を集積し,未来の活動へとひらかれている.そして「生き生きした現在」においては個人の行為的アクチュアリティにおける過去参照と未来参照とが集約される.この生き生きした現在は「個人の意識が世界に触れる接点」であり,ここにおいて「生命体としてのわたし」は「生命環境としての世界(他人や世間)とのあいだで生命的情報を交換」する.
「間」とは「間一髪」や「間髪をいれず」という表現がしめすような瞬間的な接触あるいは遭遇を意味する.人と人との「あいだ」という「間一髪の隙間」が「自己と他者との区別と一体性を同時に成立させている」.この隙間の時間性が「タイミング」である(p.171).「相手とタイミングを合わせることによって「自己」の行為主体が維持され,「自我の生動性」が間主観的な「生き生きした現在」の構成に参加でき,こうして自己と世界との界面現象として時間の流れが生み出されることになる」(p.173)

ヴァイツゼッカーによれば,生きものはみずからの生命の根拠と,それと知ることなく関わりをもっている.そうしてこの関係(根拠関係)のなかで生き物は環境との「相即 Kohärenz」を維持しながら環境と出会い続けている.この「相即」が分断されれば生命はその根拠との関係を保てなくなる.「転機 Krise」とは相即の分断の危機であり「生きものと環境との出会い」の原理としての「主体」は「転機」において絶えず消滅の危機にさらされている.

タイミングは,主体と環境世界との即応の瞬間【生き物と環境世界との,そのつどの「出会い」】に成立する.「生命が自己を主体として措定し設立するとき,時間といわれるようなものが生成してくる」.タイミングとは時間の生成の瞬間を経験がとらえたものである.タイミングは「間主観的な界面現象」であり,このタイミングにおいて「主体」が成立し,「生き生きした現在」が開けて時間が流れはじめる.「時間とはもともと複数個体の相互行為に淵源をもつ間主観的・間個体的な界面現象なのだろう」(pp.173-175).

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ゲシュタルトクライス
V.V.ヴァイツゼッカーは『ゲシュタルトクライス』において以下のように論じる(pp.210-213):
生きものは根拠関係のなかで環境との「相即」を維持しながら環境と出会い続けている.
生物は特定の機能によって身体(もしくは器官)と環境世界との接触をたもつ.この接触のことを「相即」とよぶ【たとえば動く対象を目で追う場合,対象像を持続的に網膜の中心に置くということによって観察者と観察対象は一体性(相即)を保つ.その他,例として鉄動眼振のことなどが述べられる.略】.知覚と運動はつねに一つの行為として不可分な全体をなし,それにより環界とのあいだに相即を成立させている.
相即しつづけることで生きている生物にかんしては主体 / 客体の単純な二分法は意味をなさない.有機体においては客体は主体のありかたに含まれている.環界と「出会い」「相即」をたもつ生物(有機体)の行為を記述するために必要なのは有機体と環界との出会い(相即)を理解することである.有機体と環界とのあいだに境界を設けるという前提のもとでは不可能である.
そして有機体の運動は,環界からもたらされる力に出会うだけでなく,運動そのものが環界の力の成立に関与している.ここには「原因と結果が互いに交互作用を繰り返す「有機体の運動形式の発生」」としての「ゲシュタルトクライス」がある.

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>界面現象としてのゲシュタルトクライス
ヴァイツゼッカーゲシュタルトクライスと名づける「有機体の運動形式の発生」は,いわば「有機体と環界との接触点で生じている両者の出会いを「無意識」的に動かしている形式生成の法則のようなもの」である(p.213).
ヴァイツゼッカーは「生物がその環境の中で保持している「生物学的統一体」」を「自我」とし,この「自我」から環界と相対させる原理を抽出して「主体」と呼ぶ.ヴァイツゼッカーの「主体」は「個体とその環境との接触の現場において,両者の相即を絶えず回復し続けることによって個体の生存を可能にしている「原理」のことである(p.214).

個体の主体はけっしてリアリティとして個体の内部にあるものではなく,つねにアクチュアルに個体と環界との境界面に「出立」している.「入力も出力もなく,内部も外部もなく,それ自体で自らの境界を決定する自己産出のプロセス」という仕方でマトゥラーナとバレラが提唱した「オートポイエーシス」の理念がもっとも純粋に達成されているのは,彼らがモナド的単位体として構想した生命システムにおいてではなく,むしろヴァイツゼッカーのいう「界面現象」としてのゲシュタルトクライスにおいてであろう.(pp.214-215)

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オートポイエーシスゲシュタルトクライス

研究対象は客観的「対象」あるいは実体的な「客体」であるべきであり,空間内に定位しうる「物」のように延長と境界をそなえ,視覚的に「識別する」ことのできるものでなければならない.このようなスタンスでは「生命物質としての生物」は観察できても「生物が現に生きているという生命活動そのもの」を問題にすることはできない.そもそも「生物と生命は二つの異なったオーダー」であり,生物の「属性」としての生命機能を観察することによって「生命活動それ自身」を「見た」とするのは錯覚である.

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マトゥラーナとヴァレラのオートポイエーシス論は「観察」による「生命活動の実体化」を避け,「生命それ自身の側から生命を考えようとする」.オートポイエーシス論では「生命システム」は「自己自身を産出する機械」と定義される.「オートポイエーシス・システムは「自分自身の状態と相互作用することによってのみ次の状態を産出する.そしてこの新しい状態との相互作用が,さらに次の状態を産出する」.
ここにはキルケゴール西田幾多郎によって「自己」と規定された自己言及的な構造がある(自己は《関係が関係それ自身に関係すること》,など).「自己の主体性は自己が自己自身と関係し,自己が自己自身を生産する自己言及的な構造としてのみ成立しうる」.
ここで,「自己」や「主体」は一個人,一個体についてのみいいうるという常識にとらわれるとふたたび生物と生命とのオーダーの混同におちいる.たとえばマトゥラーナとヴァレラはオートポエティックな生命システムについて語るうえで,その「主体性」を「単位体」としての生命システムに固有のものとして,生命システムの「内部」において考える誤りをおかした.「オートポイエーティックマシンには入力も出力もない」という規定にとり内部と外部の区別を排除したにもかかわらず,「システム」という理念にこだわったために「主体の内在」という錯視におちいることとなった.
自己や主体の「オートポイエーシス」を考えるためには,その内在性を否定することが必要である.主体の内在という錯視にたいする解体作業の一つを,ヴァイツゼッカーの 「ゲシュタルトクライス」理論にみることができる.
(pp.206-210)