認識から行為へ

>「認識の立場」の批判
木村は,フッサールがこのように考えるのはあくまで理論的思索にとどまるからだとする【理論 theory ← テオリア theōria (観想,見ること〉】:「現象学的哲学のような理論的思索においては,いかなる「行為」も一旦は「認識」を通すことによってしか理論的に言語化はできないのだから,ことさら明示的に認識の「中断」を表明することなしに行為の立場に徹しきることは困難である」(p.150).
「理論」ひいては「見ること」,認識の立場にとどまることにたいする批判は,ニーチェの「力への意志」解釈にかんする木村のハイデガー批判にもあらわれる:ニーチェは《真理とは,それがなければある種の生物が生きられないような誤謬のことである》とする.対象と認識の合致 adaequatio rei et intellectus としての「真理」に達するためには対象のアクチュアリティをとりさってリアリティを確保する必要がある.「認識行為がアクチュアリティをリアリティに変え,必然を偶然に変え,「不思議」を思考可能に変える」.このことはハイデガーのいうアレーティア(非隠蔽 aletheia,存在の開け)としての「真理」においてもかわらない(pp.79-80).ハイデガーニーチェのいう生命の本質を「存在(存在者全体の存在)」すなわち「力への意志」であるとした.ハイデガーは「ニーチェ形而上学のなかに閉じ込め,「科学」ではないにしてもともかくも「真理への学」でなくてはならない自らの思惟を救済しようとしたのではないか」(p.42)

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>行為的直観へ

認識の立場にとどまるかぎり他者の「超越論的自我」のはたらきは不可知である(p.153).現象学ではこのようにして「わたし」と「他者」の「超越論的自我」のはたらきを「匿名性」のうちにおく.しかしそもそも「「わたしの」現在も「かれ」の現在もともに一つの「前人称的」な「生き生きした現在」に根ざして」おり(p.153),この「「自我」と「他我」との「間主観的」な共通の現在」――いわば「間主観的主体」(p.160)こそが「生き生きとした現在」として(対象として認識されるのではなく)非対象的に経験され,かつ一人称を欠く(「わたしの経験」とはいえない)という点で「匿名的」なありかたにとどまっているのではないか(p.161).そう木村は論じる.
このような「非対象的に経験可能な匿名性」なありかたをする「生き生きした現在」は,すべてを「対象化」する認識の立場では考えることはできない.「それを可能にするのはただ,西田幾多郎が「行為的直観」と名づけた実践的・行為的な経験のみである」(p.162).「実践的・行為的」「ノエシス的」なことは「行為的直観によってしか「見る」ことができない」(p.131).
「「こころ」の動きは眼に見えない.だからそれは客体的認識の対象になりえない」(p.101).他人の「こころ」の動きは「その人と行為的な関係をもち,この関係そのものの自覚の中で実践的にそれに触れるということ」によってのみ「見る」ことができる.そのためには「他人の自己のはたらきを客体的に対象化することなく相互主体的に「自覚」する」ための手段,すなわち西田幾多郎が「行為的直観」と名づけ,中村雄二郎が「臨床の知」と読んでいる実践感覚のみである(p.102).
なお,いわゆる科学的精神医学があつかう「観察可能で客観化可能な個々の精神機能」は「精神機能そのものではなくてそれが物質界に映った影にすぎない」(p.5).

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