3つの次元

キーワード:力への意志,存在と生成,フッサールの時間論,生き生きとした現在
>生命(生成),力への意志,生命(存在)

ニーチェにとって生命の本質は生成 Wesenにある.何ものかの「存在」は認識の対象となり真偽の判定の対象となる.一方,存在を成り立たせる「生成」そのものに対象的認識・真偽の判定は不可能となる.「生命の生成そのものは認識の真理にとって接近不可能」であり「自然科学は生成の現場におりてくることはできない」(p.38-p.43).
《認識と生成は相互に排除し合う.その結果「認識」は別のものにならねばならぬ.認識可能にしようとする意志が先行していなければならぬ.一種の生成自身が存在者という錯誤を作り上げなくてはならぬ》.そもそも対象として把握することのできない生成に「存在の性格を刻印」して,「認識」されうる「存在者(あるモノ)」という「錯誤」に変える意志,それがニーチェのいう「力への意志」である.「力への意志」により生成の流れは「認識可能」な「個別的生命」となる.生物の個別性をなりたたせる「身体」や「生命物質」は,「生物がつねに関わり続けている生成的・根源的生命」に対して「力への意志」が「存在」という性格づけをしたものといえる.(p.91)

生命の本質は「生成」であり,それは「認識」の対象とはなりえない.しかし,「力への意志」により生成(生命)は「存在」として「認識」の対象となる.
:生きものの活動(認識,行為……)はすべて「生きる」ためになされる.生物の活動は(〈わたし〉が,この個体が)が「生きる」という目的のための「必然」である.生きものは生きるために行為する.「しかしこの必然も,力への意志が生成に存在の性格を刻印して自らにかたちを与えたときに,はじめて可能となった必然である.……,有限の物質的生命と存在者といての「自我」の虚構が生み出されることになって,そこではじめて可能になった必然である.(力への意志によって)「アル」の世界が構築されてはじめてアクチュアルな生命が可視的となり,知の対象として――虚構として――認識可能となる」(p.94).

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まず根源的な生命(1)がある.この生命はすなわち生成(1)であり認識することはできない.この(アクチュアルな)生命(1)は力への意志(2)により存在(3)の性格をもつにいたる.存在となった生命(3)は認識可能な(リアルな)存在として,たとえば「生物」や「自我」などとして具体化・対象化される.

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>時間(自己)の三つの次元(p.116-121)
木村は「時間あるいは自己の経験にかんする3つの次元」として以下の区別を設ける【この区別には生命(生成)(1),力への意志(2),生命(存在)(3)という区分およびそれらのなす関係とのアナロジーがあるだろう】.

第一の次元:時間や自己についての経験の源泉として仮定されざるをえない次元.いわば「メタノエシス的」な次元.
第二の次元:第一の次元の時間ない自己の「最初の閃き」.瞬間的な発生機の「動き」.この次元はアクチュアルに経験可能であるが対象的な同定はできない(認識できない).「ノエシス的」「こと的」な時間,自己.
第三の次元:展開済みの,「ノエマ的」ないし「もの的」な時間や自己.いわゆる時間意識(時間体験)や自己意識(自己体験)(認識可能)

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フッサールの時間論の批判(略記)(p.140-152)
「認識」と「行為」との二項対立という観点はフッサールの時間論(その批判)にもみられる.
前期フッサールの時間論(『内的時間意識の現象学』)は認識論的であり,それゆえの欠点をもつ.フッサールは認識論の立場に終始したのであるが,「認識」可能なものは「すでに完了したもの」のみである.真の未来は「行為」の場面にのみ登場する.フッサールの時間論において未来が十分にとりあつかわれていないのは認識論の立場ゆえの限界である.
後期フッサールの時間論(クラウス・ヘルト『生き生きした現在』)では,「生き生きした現在」(生き生きしていることの現れ)が時間意識の根源として位置づけられる.「生き生きした現在」は超越論的自我における「わたしは作動する」の生動性(生命性)であり,それこそがあらゆる時間意識の源泉なのである.ここにおいてフッサールの時間論は,生命の視点すなわち「行為」の視点をもつにいたった.
しかし木村によれば,フッサールのいう「作動」はあくまで認識論的な(知覚をモデルとする)能動的営為である;「見る働き」「眼前に立てる(表象する)はたらき」「反省するはたらき」を指している.この意味で「作動」は志向的「作用 Akte(行為)」とかわりはない.
フッサールには「認識」と「行為」とのアンビバレンツ(両価性)がある.「立ちどまりつつ流れる」という表現の両義性に反映されているのはこのアンビバレンツである.「立ちどまりつつ流れる」こと,「永続する流動」の自己矛盾の背後には,後期フッサール現象学にふくまれる認識と行為との二項対立がある.この対立は「自己自身を直接に「生き」ながら,しかもそれを対象として「見」ようとする「超越論的自我」それ自身の自家撞着」(pp.151-152)によるのではないか.そしてフッサールは「とどまる今」を遍時間的(超時間的,非時間的)「理念」と見ることにより,これも「認識」の立場にとりこんでしまった.そして経験される「流動性」(流れる,流動)と理念的な「永続性」(とどまる今,永続する流動)とを構成し,作動している自我(超越論的自我)には「一切の対象的認識を拒否する「匿名性」」が与えられる:あくまで「認識」の立場から自我に「匿名性」や不可知性が与えられている.

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