偶然性の精神病理

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『偶然性の精神病理』読了【精神疾患を理解する糧になるかと哲学的な本を読み耽っている身としてはスゴすぎてイヤになるような本でした】.
おおざっぱな印象としては,著者の基本にある発想は「認識」と「行為(運動)」の区分であるようにおもう.「認識 / 行為」の二項対立のうえに「リアリティ / アクチュアリティ」「自然科学 / 臨床(行為的直観)」といった二項対立がある【参照:id:somamiti:20060623】.「こころ」とりわけ「自己」や「時間」は「認識」にはそぐわない:すくなくとも「認識」の対象としての「自己」や「時間」はあくまで「もの」化された(客体化された)ものにとどまる.しかしまた「自己」や「時間」の認識をもとめること,自己や時間そのものによる「自己意識」や「時間意識」の客体化・自己限定の動き,それは「生命」の本性に根ざす動きでもある.

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たとえばII章では以下のように論じられる:
ハイデガーによれば,ニーチェは生命 = 力への意志と考えたという.しかし,ニーチェは「存在者全体の存在」としての生命を問題にしたのではない.ニーチェにとっての生命の本質は,力への意志により「存在者の存在」という虚構に固定されるまえの「生成そのもの」にある.
ニーチェにとって生命の本質は「存在」ではなく「生成 Wesen」にある.何ものかの「存在」(なにかが「ある」こと)は認識の対象となり真偽の判定の対象となる(真理とは対象と認識の合致).一方,存在を成り立たせる「生成」そのものに対象的認識・真偽の判定は不可能となる.「生命の生成そのものは認識の真理にとって接近不可能」であり「自然科学は生成の現場におりてくることはできない」(p.38-p.43).
「現実」や「現在」は「生成」あるいは生命それ自体の流れが認識可能な「存在」にされ,「世界」としてわれわれの「前に立てられ」,表象 vor-stellen されたものである.西田幾多郎はこのことを「永遠の今の自己限定」「絶対無の自己限定」「現在が現在自身を限定する」と言いあらわした.これはわれわれの意識面での「現在」の自己限定である.しかし生物が「生きている」ことがすでに「無限定の生成の流れが自己自身を生命物質として限定している」こと,すなわち「自己限定」のうえに成り立つ.そしてニーチェの「力への意志」とは,この自己限定における「限定する自己」である(p.50).

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(中断)