境界面

腎・泌尿器の試験終了.つぎは整形外科.
講義では生命があらわれてから現在にいたるまでの経緯にかさねあわせて腎臓の系統発生学を説いたものがもっとも興味ぶかかった.内容はとても入門的なもので雰囲気も講義というより漫談めいたものでしたが.
細胞膜という仕切りができたときの原始海洋の成分組成が細胞内液の組成(カリウムたっぷり)に,その後,時を経て生物体が多細胞という体制をとるようになったときの海洋の組成が細胞外液になった(ちなみに時を追うごとに海水のNa濃度は高くなった.そのためNa濃度は,現在の海水>細胞外液>細胞内液,となる).
生物体はその当時の「環境」を体内に宿しており,その環境の恒常性を保つことはどうやら生命活動の必要条件となっている.腎臓はとくに体液( = 内部環境,細胞外液)の恒常性維持の機能をになう.海水のなかにいたころには体内に流れこむ過剰な水やNa(および過剰な代謝産物)を体外に排出するための機能をうけもった.その後,生物体が陸上にあがった後は,入手困難な水や体液の成分を蓄え,かつ,過剰となった成分や代謝産物を排出するための,ろ過と再吸収の機能をうけもつにいたった.
それにしても腎と肺とはまったく縁のない器官とおもっていたけれども,いろいろ勉強してみると,むしろともに血液にふくまれる代謝廃棄物の排泄(および必要な成分の(再)吸収)をうけもつ器官であり,体液の恒常性維持(とくに酸塩基平衡)のうえで密接な関係をもつ器官であり【参照:id:somamiti:20060124】,肉体と外界との界面をなす器官としてイメージされておもしろい(消化管腔も界面といえるでしょうけれども,なんだかこちらは界面に接するモノから吸収するのが専らの役割なので,なんだかダイナミズムに欠けるかんじ)

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木村敏の『偶然性の精神病理』(ISBN:4006000103)を読んでいる.例によって(?)古本屋で安く売っていたからというだけで購入した本であるけれども予想以上に興味深い.

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序論でのいくつかの概念の導入において「リアリティ」と「アクチュアリティ」という二つの概念の区別がなされる:
これらはともに「現実性」「実在性」の訳語が当てられ,ときに混同されて用いられる.しかしラテン語の語源をたどると,リアリティは「もの」「事物」を意味する res に,アクチュアリティは「行為,行動」を意味する actio に由来している.おなじように「現実」といっても,リアリティは現実を構成する事物を「認識し確認する立場」からいわれる.それにたいしてアクチュアリティは現実にむかってはたらきかける行為の「はたらきそのもの」にかんして言われる(なお,ドイツ語でアクチュアリティに相当する語が Wirklichkeit である).
たとえば離人症 depersonalization は,自己の存在感が失われ,「人格」person としての実体感が感じられなくなるところから名づけられた.離人症においてはまた外界の現実感や実在感も失われる.この現実感喪失は derealization とよばれる.しかし「失認」などとことなり,外界の事物の物理的存在が認知されなくなることはない.それゆえ離人症は「患者が世界に対する行為的な関与の遂行感を失った結果として現実感が希薄になるというほうが正しい」.いわば desactualization の現象なのである.
離人症の場合,リアリティは保たれているのに,アクチュアリティは失われてしまう.そして離人症者は「自身のアクチュアリティが失われているというリアリティ」を「大きな苦痛を伴なって生々しく感じとっている」.

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リアリティとアクチュアリティという概念による離人症の定義はそれまでみたことのないものであるけれども,とても簡潔で要点をおさえたものだと感じる.

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また,序論ではこのアクチュアリティとリアリティの区別から木村自身による「あいだ」や「間」という概念のとらえなおしがなされる:
それまで「あいだ」は対人関係・対人距離など「ある種の空間的な広がりをもったもの」として,「間」は音と音のあいだの沈黙がもつ「時間的な「広がり」」として,これまでイメージされることが多かった【私もまた,そのようにイメージしていた.それゆえ「あいだ」や「間」という概念には,なんだか幽霊のような胡散臭さをかんじていた】.
しかし,これらはアクチュアリティとリアリティの区別が明確でなかったことによる誤ったとらえ方である.アクチュアルで行為的な現象である「あいだ」や「間」がリアルなものとして表象されている.「あいだ」や「間」とは,いわば接触点や接触面(たとえば自己と世界との)なのである.

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中途半端ですが本日はこれまで.