ただそれだけのこと

「私を見抜いてください」ととうとう私は言った.「私は,お考えのような人間ではありません.私の本心を見抜いて下さい」
和尚は杯を含んで,私をじっと見た.雨に濡れた鹿苑寺の大きな黒い瓦屋根のような沈黙の重みが私の上に在った.私は戦慄した.急に和尚が,世にも晴朗な笑い声を立てたのである.
「見抜く必要はない.みんなお前の面上にあらわれておる」

三島由紀夫金閣寺』)

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以下,3月の半ばごろに書いたメモをもとに.

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断片だけを提示すれば,読者はその欠けた部分を想定してくれるかもしれない.たとえばスポーツ新聞の見出しのように.「パッチワークガール.そう,わたしはツギハギ娘」.そうしておいて「私を見抜いてください」という.「私は,お考えのような人間ではありません」.

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あなたの言葉には実感がない.あなたの言葉は借り物じみていて空疎な響きがする.数年前にそのように指摘されたことがあった.そのさらに数年前にはある予備校講師から「キミに必要なのは「矢面に立つ」ということだろう」と指摘されたことがあった【まるで飛鳥井センセー(『VSイマジネーター』)のような人だった】.

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リアル,生,経験.あるいは「ほんとうの自分」「借り物でない言葉」.そうしたものが私には欠落している,そのような感じかた,空虚感.それは「リアル」や「生」を殊更に〈根源〉としてセッティングすることで現れてくるものだったようにおもう.なにも見抜く必要はない.みんなお前の面上にあらわれておる.なにも,根源に立ち返るひつようはない【すべておまえの面前にあらわれておる】.
生きてゆくための能力や技術や心構えや知識が欠けていた.ある事柄にかんする「自分の考え」を述べようにも,そうした事柄にかかわる知識もなければ経験もなく,借り物の知識を自分のものとして消化することもできておらず,そもそも借り物の知識さえ十分にもっていなかった【パッチワークをつくりあげようにもハギレそのものが不足していた】――だからそのとき,私の言葉はいかにも「実感がない」「空疎な響き」をもったのだろう.

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このように書きつらねてみれば「リアル」や「自分自身の言葉」に拘っていたことそのものがまるで嘘のような,半ば夢のようなおもいでになりつつあることを〈実感〉する.「リアル」や「まことの言葉」への希求――それは馬鹿げたことだったと片付けようとしているのだろう.
それでもなお【他の人々への妬み,嫉み,劣等感――攻撃性をネガとする】自らの欠落した箇所を「リアル」の欠落として把握し,その欠落に苦しんでいたことはあった.それは虚偽にみちており,またその虚偽への自覚もそなわっていた.それは(馬鹿げているからこそ真摯な)苦しみだったのですよ.よくがんばりましたで賞.

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戸の彼方にはわずか三間四尺七寸四方の小部屋しかない筈だった.そして私はこのとき痛切に夢みたのだが,今はあらかた剥落してこそおれ,その小部屋には隈なく金箔が貼りつめられている筈だった.戸を叩きながら,私がどんなにその眩ゆい小部屋に憧れていたかは,説明することができない.ともかくそのに達すればいいのだ.と私は思っていた.その金色の小部屋にさえ達すればいい…….
私は力の限り叩いた.手では足りなくなって,じかに体をぶつけた.扉は開かない.
潮音洞はすでに煙にみたされていた.足元には火の爆ぜる音がひびいていた.私は煙に噎せ,ほとんど気を失いそうになった.咳き込みながら,なおも戸を叩いた.扉は開かない.

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実感がないだの本当の自分が無いだのと御託を並べてはいるもののそこにあるのは畢竟,ただの劣等感,妬み嫉みに無いものねだり.ただそれだけのこと.
「ただそれだけのこと」といってしまえばただそれだけのことで,「戸の彼方にはわずか三間四尺七寸四方の小部屋しかない筈だった」.しかし「私は思っていた.その金色の小部屋にさえ達すればいい……」.その小部屋を私は見たことはない.けれども「あらかた剥落してこそおれ,その小部屋には隈なく金箔が貼りつめられている筈だった」.
――というよりも,いまでもどこかで黄金の小部屋を夢みているように感じる.それは「ただそれだけのこと」なのではなく,今のところは「ただそれだけのこと」という距離をおいたうえでその部屋をみているのだろう.そのスタンスに安んじる感受性の低さ(あるいは耐性)を身につけたのだろう.

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ある瞬間,拒まれているという確実な意識が私に生まれたとき,私はためらわなかった.身を翻して階を駈け下りた.煙の渦巻く中を法水院まで下りて,おそらく私は火をくぐった.ようやく西の扉に達して戸外へ飛び出した.それから私は,自らどこへ行くとも知らずに,韋駄天のように駈けたのである.

(中略)

別のポケットの煙草が手に触れた.私は煙草を喫んだ.一ト仕事を終えて一服している人がよくそう思うように,生きようと私は思った.

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