heart transplantation

先日うけた心臓移植の"講義"(医学教育用症例の学生による検討会における講師のコメント(ないし独白))についての覚書【以下のメモでは統計的な数値をいくつか記しますが,たしかな典拠にあたったわけではないのであまり鵜呑みにされないようお願いします】.

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脳死状態のドナーからの)心臓移植はアメリカでは年間2000例,世界では4000例おこなわれている.一方,日本では年間4,5例程度である.これは日本における心臓移植のドナーが他国に比して少ないことによる.
理由の1つは人の死にかんする考えかたである.心臓死と脳死のいずれをヒト(ないし人間)の死として認めるかという問いにたいし,日本では一般の人の多くは心臓死 = 人の死とする見解をとる.医療関係者では脳死 = 人の死とする見解が大勢をしめる.しかし心臓死こそ人の死とすべきだという見解も根強く,医師を対象としたあるアンケートでは2〜3割の医師が後者の見解をとった.
もう1つの理由は脳死状態の人を心臓移植のドナーとするのに必要な手続きがキビシイことである.日本においてはまず(1)「脳死状態において心臓を移植のために提供します」という本人の意志表示【ドナーカードの所持】が必要であり(2)そのような本人の意志表示があっても家族の反対があれば移植は認められない.一方,国際的には脳死状態にある本人の明確な意志表示がなくとも家族が認めるのであれば心臓などの臓器提供が認められるというのがスタンダードである.
なお,これらの理由の背景に仏教や儒教などの思想の影響をみてとる論者もいる.しかしおなじく仏教や儒教などの思想的背景をもつ韓国や台湾では年間に50例程度の心臓移植がおこなわれている.

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これらの理由から日本では心臓移植のドナーが極端に不足している.そのため心臓移植を必要とする日本人は比較的多くのドナーが得られる国(アメリカや東南アジアなど)へ渡航して心臓移植を受ける.そのためには数千万円ほどの費用が必要である.そうした費用はときに寄付によりまかなわれる【日本では他人のために心臓を提供するという意志表示をする人は少ない,その一方で心臓移植に必要である莫大な費用は寄付をつのれば比較的容易に集めることができる.これはとても歪なことだとはおもわないか――講師の口調はそうしたニュアンスを含んでいたと感じる】.これにたいする国際的世論の風当たりは強い:A国人の一人のドナーから提供される心臓を一人の日本人に移植することは,その心臓を必要としていたA国人の患者が一人,移植を受けることができなくなり,ときには命を失うことを意味する.極端にいえば"日本人は金に飽かせてA国の心臓を買っている"のだ.これは"エゴイスティック"なことであり,制度の整備などによって先ずは自国人のドナーをつのるべく努力するべきだという勧告が日本にたいしてなされているという.

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脳死と心臓死のいずれを人の死とみとめるべきかについてはさまざまな見解があるだろう.しかしそのような議論において,脳死に比して心臓死があまりにもいいかげんな基準にもとづいて判定されていることはあまり考慮されていない.
一般的ないし慣習的に,心臓死の判定は,呼吸・脈拍が停止して心電図上の波型がフラットになり,さらにそこから20〜30分のあいだ状態が持続していることを確かめることでなされる.これはとても大雑把な判定である:心電図上の波形がフラットになることは全ての心筋細胞が死んだことを意味しない.一時的にそのような状態になったとしても,しかるべき処置により心筋細胞の集団的な電気的活動(ひいては拍動)が再開する可能性はある.このことは,"心臓死"ののちもヒトの体を構成する細胞の一部はなお生きている(だからこそ,死後に髭が伸びるなんてことはザラにある話である)のと同じことである.
脳死ではさまざまな判定法によりすべての【脳幹レベル以上の】神経細胞の死を確認することで「脳死」と判定する【参照:id:somamiti:20050920】.この脳死判定とおなじだけの精確な判定は「心臓死」にたいしてはなされていない.
【これまではこのように曖昧な「心臓死」という死の判定もとりたてて問題をひきおこさなかった.しかし……】【「通夜」などの移行期間において人はゆっくりと死んでゆく(のぞむのであれば肉が腐り落ちて骨になるまで死のフェイズ(相)を観取してもよい)――人の死のプロセスは個体としてのヒトにおいては完結しない】

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脳死と心臓死のいずれを人の死とするのか.それぞれの条件において臓器移植を認めるのか否か.自身についてはどのように身を処するのか――これらの問題にかんしてたつ立場の如何にせよ,医学を学び医師を志すものにとって,少なくともそうした問題があることを知っておくこと,そしてその問題にたいする自分なりの見解をもっておくことは必須のことであろう.
――講義の内容はこのようなもので(見解の相違などをはなれたところでの)誠実さを感じた.

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話のさなか,講師が幾人かの学生を指して「脳死」と「心臓死」のいずれを人の死と考えるかの見解を問うという場面があった.そのおり,学生の一人が"脳死こそがヒトの死である"という見解を述べるのに付け加えて"脳が死んでいる人は【心・精神がない,それゆえ】いわばモノである"と(露悪的に,あるいはパフォーマンスとして)述べた.それはパフォーマンスに過ぎないのだろう.しかしそれだけに唾棄すべきスタンスだと感じた【それこそ生きていようが死んでいようが脳は(そしてヒトは)"モノ"だろう】.
それゆえ自分が指されたときには過剰なまでに"心臓死こそを人の死とするべきだ"と唱えることになった.そのときに述べたことをまとめるなら,(1)人の死はその個体においては完結しない,(2)何が「人の死」であるかを定めるのは医師の領分を越えている.ということになるだろう.
それにたいし講師は"人が死んでいるか否かを見きわめるのは医師の(そして医師だけの)仕事の1つ,いわば医師のスペシャリティである.それゆえに医師はむしろ積極的に何が「人(ヒト)の死」であるかを考え,また規定してゆく立場にある"という旨の考えを述べられた.たしかに,そのほうが誠実なスタンスであるように感じる.

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ただ「脳死 = 人の死」とする論への違和感はやはりある:それは臓器移植が先にありきの議論であるように感じる【それとはべつの,"延命処置"――脳死状態にあるヒトの心拍を維持するための処置の是非をめぐる問題もあるのだろうけれども】.脳死を人の死とすることの問題と,ヒトの臓器を"経済的"に"流通"させることの問題,それらをめぐる思惑がさまざまにコンタミしているようで気持ち悪い.

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参考になりそうなwebページ

「(社)日本臓器移植ネットワーク・ホームページ」〈http://www.jotnw.or.jp/

「心臓移植のあらまし」〈http://www.ncvc.go.jp/cvdinfo/pamph/pamph_09/panfu09_01.html〉(循環器情報サービス〈http://www.ncvc.go.jp/cvdinfo/cvdinfo.htm〉(国立循環器病センター)内)

臓器移植法を考える」〈http://www.lifestudies.org/jp/ishokuho.htm〉(生命学ホームページ〈http://www.lifestudies.org/jp/〉内)