断片集

あるテーマについて話をしているとき,自身の考えをたずねられて答えに窮することがしばしばある.生半可な知識でジャーゴンを弄んでいただけ.自身の考えなど何もない.まったくの空虚.何も解っていないのですと申しあげたくなることがある.
断片が示されればその欠片のオリジナルが想定される.補完される場を宛てにして(宛てにするかのようにして)発信される断片.

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「断片集」とは断片の集まりです.そこに〈私〉はありません.〈私〉なるものは今や既に and/or 未だかつて在らないのです――といった含み.ここに含まれる断片化した(解離的な)自己というイメージ.欠片たちとして提示されたモノたちの原本(オリジナル)として浮びあがる一つの自己(復元予想図).
欠片となった私.断片化された私は引用の束である.私の言葉は他所からの借り物.私は水を流すパイプにすぎません;私は源泉ではありません.私は何ひとつとして新たなモノを生み出すことはできないでしょう――といったポーズ【をとりながらパッチワークを,クレイジーキルトを織り成してゆくこと,冊子の編集】【 ← それこそ聞いた風なことを】.このポーズは以下のことを含意するだろう:私は引用だ.私は鏡像だ.だからこそ〈ここではないどこか〉には引用の原典の(作者〉がいる.私が身につけている鏡像のオリジナルである〈本体〉がある.

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いつものようにここで【参照】や【引用文献】を記すことを考える【「宛て」や〈作者〉といった言葉づかいのもと:バルト「作者の死」】.優等生じみた身ぶり.空虚な中身,薄っぺらな張子の虎.すくなくともこの御本は読みました!というエクスキューズ【カラ威張り】.「読みました!」ということにまず意義がある夏休みの読書感想文を【このページをいつかどこかでみているであろう】誰かさんに宛てて差しだすそのふるまい.先生の想定【そしてここでは先生は幽霊のように遍在している】.

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しばらく前,先輩と『他者と死者―ラカンによるレヴィナス』にかんする雑談をした.作者はレヴィナスの研究をしている方で,本のなかには「しとしてのたしゃ」という一節がでてくると耳にした.ただちに「死としての他者」と変換し,なるほどイカニモだなあと合点していたところ‘ちがうんだよ.「死」じゃなくて「師」なんだよ.「師としての他者」なんだって’とツっこまれて‘?!’とのけぞった記憶がある.上記の連想を記すうちに‘ああ,なるほど’という気持ちになった.

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