妄想と夢

たとえばグラディーヴァという名前.無限皇帝グラディーヴァなどと称するといかにも強そうだとおもう【なお本日の日記は『妄想と夢』とはいっさい関わりありません】.

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死の四重奏 the deadly quartet 【いわばメタボリックシンドロームの親戚】や(日本)赤十字社(japan)red cross society も英語(のカタカナ表記)にすると印象が大きくかわるようにおもう.赤十字社からレッド・クロス・ソサエティと呼称を変更すれば“ゴシック”趣味のかたのあいだで献血が(これまで以上に)大人気,輸血用の血液の不足も一気に解消とのはこびになるかもしれない.メタボリックシンドローム≒死の四重奏もデッドリー・カルテットと称すれば,メタボリックシンドロームと診断されたおじさまも「ふふふ.これでわたしもデッドリー・カルテットの一員か」と悦に入ることができて幸せかもしれない.冗談.
【関連:日本赤十字社http://www.jrc.or.jp/〉】

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ときに愛の無さ【むしろ,ありあまった愛?】が転じ,生まれた子どもにキテレツな名前をつける親がいるという.たとえば‘ランバダしげる’のような名前である.ありえないとおもう.しかし親の名前が‘カッポレよしお’であるならば,その子どもが‘ランバダしげる’というのはむしろありえる話だとかんじる.

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【後輩が講義で耳にした話のまた聞きで,かなり信憑性にかけるはなしであるが】あるブッシュマンの民族では‘出来事を記念’して個人名をつけるという【おそらく菅原和孝先生の人類学の講義ではなかろうか.たしかにそのような話を聞いたような記憶もある】.この‘出来事’というのは夫婦喧嘩や父親が牛に咬まれたといったもので,そこで個人名もまた‘飛ぶ包丁(夫婦喧嘩を記念)’‘咬みつき’といったものとなる.ここまではトリノを新婚旅行の場所にした夫婦がその記念として子どもに‘透理乃’といった名前をつけるようなものかもしれない【とでっちあげ.どこかにおられるかもしれない‘透理乃’さん,ごめんなさい】.ありえる話だとかんじる.しかし更に,彼らのなかには個人名をもたない人物,すなわち‘ななしさん’がいるという.日常生活においてはそれでこと足りており,インタヴュアーが改めて個人名を尋ねたとき,はじめて‘そーいえばコイツの名前ってなんだったっけ’という話になるという.ありえない?
しかし改めて考えると,幼児期のころには祖父母の名を知らなかった(父母の名さえあやふやだった).ただ‘おじいちゃん’‘おばあちゃん’と呼び,それでこと足りていた.それをおもうと個人名が無くても‘名指し’【固定指示?ちょっと術語がわかりません】が成立するというのもありえる話だと感じる.

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おもえば‘太郎’や‘次郎’といった個人名は‘おじいちゃん’‘おばあちゃん’に近い印象をうける【それぞれ‘一番初めに生まれた男児’‘次に生まれた男児'という,家族内での位置づけを指し示すような名前のつけかただ】【あらためておもうと人類学の用語はまったく知らないなあ】.それでいてフツーの名前だという印象もある;‘ランバダしげる’よりは世間並みの名前であるとおもう.
代替不可能な我が子には正しくユニーク unique な名前を付与したい.世間並みとは一味違った名前こそが親の愛の証し.この是非は未だ親ではないソマミチにはわかりかねることですが,その愛が昂じていたずらにキテレツな名前をつけるくらいであれば,とりあえず【?】「太郎」「次郎」「三郎」,あるいは「はなこ」や「よしこ」,「いちこ」「ニコ」「みこ」あたりの名前でことたりるのではないか.

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ディズニーによる『南極物語』のリメイク【?】のことをおもいながら.

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文献メモ:菅原和孝
1998『語る身体の民族誌京都大学学術出版会
1998『会話の人類学』京都大学学術出版会
1999『もし、みんながブッシュマンだったら』福音館書店
2002『感情の猿=人』弘文堂
2004『ブッシュマンとして生きる』中央公論新社