大森によるフッサール批判

本書の著者である大森と同様,フッサールもまた近代科学に対する根本的な異議申し立てを行い,世界観上の「包括的態度変更」を迫る.フッサールは近代科学の本質は「理念的数学化」にあるとし,そのルーツはガリレイによる「自然の数学化」であるとする;フッサールは『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』においてガリレイに端を発する「自然の数学化」を批判的に考察し,数学的シンボルという「理念の衣」を廃棄して直接的経験のフィールドである「生活世界」に還ることを求める.この問題提起は密画的世界観( = 理念の衣)にたいする略画的世界観( = 生活世界)の根源性を主張したものとみることもできる.
【参考:id:somamiti:20050807#p1】

しかし大森はフッサールの近代科学批判をさらに批判する:近代科学の本質を「自然の数学化」「理念的数学化」とするフッサールの見解は【近代科学および「数学化」にたいする】誤解にもとづいたものである.

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フッサールの「自然の数学化」批判は以下の2点による:
(A)数量化・数学化は,具体的現実を数学的に抽象する;対象世界の数量的側面にのみ着目して質的側面(感覚的な性質や個性)を切り捨てる.
(B)純粋幾何学が関わるのは「理想的な極限形態」である【そして,そのような極限形態はあくまで理念的なもの,いわばイデアである】.自然を幾何学的に表現することは自然を理念化すること,数学的多様体に変えることである.
この2点について,大森は以下のように批判する(7章および9章.そこではガリレイの『天文対話』,デカルトの『哲学原理』が参照される).

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(A)に関して:フッサールは「数量化・数学化」イコール「具体的現実を数学的に抽象すること」「対象世界の数量的側面にのみ着目して質的側面を切り捨てること」とする.しかし‘数量化 = 現実の抽象化’ではない.数学化とはむしろ現実を〈細密に〉〈より具体的に〉描写する(p.119)ことである【それこそポリゴンの細密化のように】.
たとえば経験世界には完全な球状の物体はない.しかし,だからといって経験世界の物体はすべて幾何学的に「不正確」な形状であるとするのは誤っている.現実に経験される角砂糖やバッタは,球や三角形のような‘幾何学的な’形状はしていない.しかし,それは「不正確」な形状をしているのではなく,「非常に複雑な」幾何学的形状をしているのだ.フッサールは「われわれが現実に経験する……物体は……〈純粋な〉立体,〈純粋な)直線,〈純粋な〉平面,〈純粋な〉図形,……といった,理念的な空間に描き込まれる,幾何学的に〈純粋な〉形状ではない」とする.しかしフッサールのいう「純粋な」形状とは実は「簡単極まる」形状であり,そんな単純な形をしたものはこの現実世界にはまずない.(pp.117-118).
また「数量化」は質や個性を捨象するという批判も誤解にもとづく.たとえば商品の品質管理はいわゆる「質」が数量化されることによって容易になる.また個性や感動などは,それらが数量化ができないという以前にそもそも言語による細密描写ができない:「例えばある人の「悲しみ」の個性を表現できないというならば,その個性の細部は一般に言語では表現できないといわねばならない」(p.120).それゆえ,それを数量的表現の限界とすることは誤りである.

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(B)に関して:フッサール幾何学の空間と日常経験の空間は根本的に異なる性格のものだとする(われわれが現実に経験する物体は〈純粋な〉立体や直線,平面,図形……といった,理念的な空間で描かれる幾何学的に〈純粋な〉形状ではない).フッサールによれば,「純粋幾何学」は「空間時間性における抽象的形態」,いわば「純粋に〈理想的な〉極限形態としての形態」【いわばイデア】にのみかかわる.それゆえガリレイデカルトによる自然の「純粋幾何学」による表現は自然の理念化であり,自然は「数学的多様体」「数学的宇宙としての自然」として描かれる.
しかし,ガリレイデカルトが考えた幾何学ユークリッド幾何学)の空間は,日常の生活空間と同一の空間である.たとえばデカルトは,空間(延長)はあくまで物体に備わるものであり物体をかけ離れてあるような【イデアめいた】「哲学的存在」ではない,とする:「物体的実体を延長や量から区別する場合,その人は実体ということばの意味が何もわかっていないか,それとも,非物体的実体の混乱した観念だけをもっている」.「デカルトは机や椅子とは別な「幾何学的空間」などは妄想だというのである.そして私はデカルトが正しいと思う」(p.146).

またフッサールは「数学化」や「数量化」は形や運動といった幾何学的・運動学的性質にのみ可能であるとしたうえで「数量化」による感覚的性質の捨象を批判する;色や音などの感覚的性質は「形や大きさの場合の「純粋幾何学」のように,測定に際してその「理念的極限」として経験的測定の「近似」の度合いを定めるもの」がない.それゆえ色や音には「精密な測定」はありえず,可能なのは「間接的数学化」でしかない(たとえば色に,色覚を生じさせる電磁波の波長によって表示するといった【そして,このとき「色そのもの」についての経験,色という「質」は捨象される】).
しかし,たとえばマンセルの色立体座標のように,色や音などの感覚的性質の数学化も可能であり,また現になされているのである(p.146).

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(A)(B)からわかるように,フッサールは「数学化」に以下のような意味を与えている:「具体的で経験的な現実世界」から出発するが,それとひどくかけ離れた「抽象的世界」を「構築」すること.(それは厳密であるが奇妙な意味である).そして,この抽象的な「数学化」の独り歩きこそ現代思想の「危機」であり,現実生活の世界とのもともとのつながりを回復せよと主張する.
「しかし私には,フッセルは自分で幽霊を作り上げてそれとたたかっているように見える.ガリレイデカルトの自然学も現代科学も,フッセルのいう意味で抽象化され,数学化されてはいない,と私には思われる.現代物理学は素人には解らない高度の数学を使うが,しかしそれは道具としての数学であって,現代物理学が描く対象はこの日常世界のテレビ受信機であり溶鉱炉や原子炉であり,投手の投げる球の運動なのである」(p.147).フッサールの‘「理念の衣」に覆われた生活世界’という解釈図式は誤解のうえに捏造された虚構にすぎない.