ラノバナ

海の向こうのオリエンタルな色,あるいは国境の向こうの野蛮な色,あるいは夜や死の色であった青が,まさにその遠さゆえに,今度は空の彼方の神の領域を表わすことになるわけです.青は,色のなかにあり,また,色の外にある.いや,一言で,青は「外」の色なのだ,と言ってもいいかもしれません.
青の美術史 (isの本)

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ライトノベルの話をしよう.

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幼いころはライトノベルをよく読んでいたとおもう.いまでもライトノベル的な本を読むことがある.なぜだろう.なにが面白くて読んでいるのだろう.というよりも,このときライトノベル的な本とは何を指しているのだろう.わたし にとってのライトノベル的な本とは,たとえば西尾維新佐藤友哉乙一沙藤一樹などの作品であり,恩田陸宮部みゆき長野まゆみの作品もライトノベル的と感じるのであり,また森博嗣京極夏彦,あるいは清涼院流水舞城王太郎の作品もそれに類するものであろう.とここまで広げてしまうとその他もろもろの,いわゆる「文学」にジャンル分けされているような作家たちとの境が曖昧になってくる.いまの私にとってライトノベルとは西尾維新の「戯言シリーズ」およびその周辺を指す――と投錨しておこう.

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ライトノベルを語ることには昔から恥ずかしさがあった.今としてはそれ以上に違和感がある.私のようなスタンスのものがいたずらに作品について何かを語るべきではないと感じる.ライトノベル――というより,西尾維新(や佐藤友哉)の作品についていえば,一つ一つの作品のことを私は愛してはいない.いや,愛してはいるのだろうが,どこかズレを感じる.
西尾維新さんのファンなんです’という一年生と話をした折り,西尾さんの作品の何処に魅力を感じているのかと尋ねた.‘何処に’と問われると困りますが,世界の雰囲気やキャラクターのとくに台詞回しがカッコいいし,読んでいておもしろいし,いろいろと考えさせられることも時にはあります――という.このような‘愛’こそが作品そのものを語るうえでの資格であろう.愛なきものが作品について語る言葉は作品論としては空虚だ.彼は作品を語っているようでいて,実のところ,彼が語っているのは‘彼の思想’であり,そこで語りの素材となった作品は彼の思想を裏づけるためのデータにすぎない.その作品は他の‘データ’と代替可能となる(代替可能であらねば,経験的(実験的)データに基づく論証とはいえないだろう).
しかし,本当にそうだろうか;たしかに西尾維新の個々の作品にたいして私は魅力を感じないが,それでも‘シリーズ’としての「戯言シリーズ」には魅力を感じつつある.それは『ヒトクイマジカル』にいたる玖渚友の描写の積み重ね,とりわけそのプロセスによるだろう.シリーズの端緒において,このキャラクターは青い髪の少女,天才にして白痴(イディオサヴァン),天上への不純物なき媒体(メディア)であり,それはすなわち偶像化された天使,ロマン主義的ヒロイン(いわばグレートヒェン)の希薄化されたフィギュールである――としか,私には感じられなかった.それが『ヒトクイマジカル』に至っては,仮面に〈眼〉が穿たれることにより〈視線〉が仮構されるようにして,薄っぺらなキャラクターのいわゆる〈内面〉が立ちあがってきたように感じる.その内面の造型は定型的で,それこそ型どおりのフィギュアにすぎないかもしれない(そして,その危惧こそ,未だに私が『ネコソギラジカル』を読んでいない理由である).しかしその到達点はともあれ,その変貌のプロセスそれ自体を「読む」ことができた――そのように感じられた――こと,そのことによって私は「戯言シリーズ」に魅力を感じている【シリーズが開始された時点ではそうした気配がとりたてて感じられなかったからこそとくに興味ぶかい.個々の作品の評価はむしろ低いにもかかわらず「戯言シリーズ」は5作目まで読むと面白くなるのですよとid:Gen-eさんに折りにつけ主張している理由はこの1点にある】.

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わたしが通う大学の生協では,一般書籍の売り上げ(マンガを除く)の大半はライトノベル(含む講談社ノベルズ)で占められる【あとは‘セカチュー’などの話題作や,すこし意外なのだが村上春樹の作品が売れ筋である.なお,コイバナはあまり売れなかったようだ】.ライトノベルといえば子どもが読むような幼稚な(アニメやマンガのような)小説という印象があるが,すくなくとも大学生にとっては読んで楽しい小説であるようだ【その大学生が子どもなのだ,と言われると返すことばもないが】.
しかし,それにしたところでライトノベルとはなにか.幼いころの私にとってそれはすなわち「富士見ファンタジア文庫」であり「角川スニーカー文庫」であり,たしかホワイトハートというレーベルから出ていた小野不由実の「十二国記」であり【ああ,「ふゆみ」を一発で変換できてしまった】,「電撃ゲーム文庫」のころにはライトノベルからは縁遠くなりつつあった(ので「キノの旅」シリーズは読んでいない)が,それでも「ブギーポップ」シリーズは読んではいた(id:mahouyaさんのお陰で).閑話休題.とりあえず,ライトノベルとは「スニーカー文庫のような小説」だといえるだろう.
大塚英志は『キャラクター小説の作り方』において「スニーカー文庫のような小説」を「キャラクター小説」と位置づける.大塚は「私小説」との対比によって「キャラクター小説」を規定する.日本のリアリズム(自然主義)文学はいわば「私 = 作者」の内面を「写生」する小説,いわゆる「私小説」に偏っている.それゆえ小説における「私」は何らかの意味で作者の「私」の反映である(として読まれる).一方,アニメやマンガのようなキャラクターとしての「私」を主人公とし,そこからみられたこれまたアニメやマンガのような世界を描いた「キャラクター小説」とは,それは「作家である私」を抜きにした小説である(p.11).「アニメのような小説」すなわち「キャラクター小説」には「写生」すべき「私」は存在しない.仮に「私」という一人称で書かれたとしても,それは作者の反映ではなく「キャラクター」にとっての「私」である.すなわち「キャラクター小説」とは「(1)自然主義的リアリズムによる小説ではなく,アニメやコミックのような全く別種の原理の上に成立している.(2)「作者の反映としての私」は存在せず,「キャラクター」という生身ではないものの中に「私」が宿っている」小説である(pp.27-28).
それゆえ,ことさらに「作家である私」を露出してみせる(かのような振る舞いが描かれる)佐藤友哉の『クリスマス・テロル』や沙藤一樹の『X雨』は「キャラクター小説」的ではないという主張も成り立つかもしれない.しかしながら,大塚はまた以下のように述べる:「「私小説」の「私」もまた虚構にすぎないことは多くの私小説家自身が語っているし,多くの文学研究も同様に指摘している」(p.302)が,それでも俗にいう「文学」は「私」の虚構性にたいして無自覚であるようだ.ならば「キャラクター小説は「私」が「キャラクター」としてあることを自覚することで,いっそ「文学」になってしまいなさい」(p.303).『クリスマス・テロル』や『X雨』はまさしくこの線上にある「キャラクター小説」である.そのように考える.

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ライトノベル(というよりも西尾維新佐藤友哉の小説)を手元に置くことは化石を收集することに似ている――と感じている.これらの小説においては虚構の私,フラットな(平面的,二次元的な)キャラクターとしての私が織り返されるうちに層を成し,立体として形成されようとする,そのプロセスが何らかの形であらわれているように感じる.それゆえこれらの小説にはアンモナイトや真珠のようなイメージがある.
これらの小説にたいして,私はやはり愛を感じているようにおもう.しかし,その愛はどこかズレている.そのズレは,たとえるなら動物愛好家の愛と解剖学者のそれのズレであるようにおもう.犬を友とし犬を愛する人々に対して解剖学者のスタンスでの愛を語ることは礼を失する振る舞いであり,時には怒りをもって報いられたとしても当然のことだろう.
先に,「戯言シリーズ」における玖渚友の‘位置づけ’の変化が興味ぶかいといったことを記した.「戯言シリーズ」の個々の作品を「個体」とすれば,その‘位置づけ’の変化ゆえにシリーズを愛することは,いわば「種」の化石を陳列し,比較形態学的に眺めることを楽しむことに似ているかもしれない【とすれば,『ヒトクイマジカル』において顕在化した「形質」は,シリーズのそもそもの始めから種に備わっていた素因によるものだろうか.それともシリーズの開始後に生じた偶然の変化が環境の淘汰圧によってドミナントとなるに至ったのだろうか.……】.そしてまた,これらの形質について類(ジャンル)の単位で比較形態学的にとりあつかうことによっても観賞の楽しみは増すだろう.これが,西尾維新のような小説の何が面白くて読んでいるのかという問いにたいする答えとなるだろう.
そして,これらの化石はまた〈私〉の化石でもあると感じている.ライトノベルに限らず小説や文学には,〈私〉の形態が――というよりも〈私〉の個体 / 系統発生学的展開のプロセスが「化石」として凝固しているように感じる――あるいは,そのように感じられる作品を,わたし はとりわけ好んで読んでいるのだとおもう.それゆえに――
本当の,ライトノベルの話をしよう.

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