語りそこなう

そういうわけで,私がこれから自分の生をしめくくるつもりでこれまで生きた全体をスケッチするとしたら,それは徹底して複雑な入れ子細工の箱となって,引用のなかの引用の,また引用の,という様相を呈するのではあるまいか?
私という小説家の作り方 (新潮文庫)

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フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人 (講談社ノベルス)』を読んだ.興味ぶかかった.この作品は‘オタク系サブカルチュア’を宛てにした記述で溢れているとid:Gen-eさんから聞いていたため,この作品を味わい損ねることを危惧していた.幸い作中に登場したアニメなどのキャラクタの名前はおおむね聞き覚えあるものだった.また,仮に聞き覚えがなかったとしても,この作者の小説を楽しむ障害とはならないと感じた【ブレイクの詩を読んだことはなくても大江健三郎の小説は楽しい】.
フリッカー式』を読み終えたのち『クリスマス・テロル invisible×inventor (講談社ノベルス)』をみかえした【以下,評論家めいた文章】.これらの作品の――この作者の――主題は「物語」であり,それは「自分の物語」である.そして,その「物語」は分節化 articulation されるはずのところで脱臼し,ポキポキと崩れてゆく:「自分の行動原理」「物語の意味」「登場人物としての本質」,それらは一切「解決」することないまま「終焉」する.‘私の物語’はピリオドを打たれることのないままに打ち切られる.「ざまあみろ」「お前の物語なんて誰が読んでやるもんかよ!」.そしてそれゆえ,この作者は「他者」を要しない.

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ついでに西尾維新沙藤一樹の作品に関する思いつきを記しておこう.いずれの作品も「キャラクター小説」「セカイ系」「キミとボク派」に位置づけられるものだろう.そこで語られる主題は‘セカイ’と‘ボク’との関係であり,舞台装置や道具立ても似かよっていると感じる.しかし一方でそれぞれの違いもあると感じる.
西尾維新の作品群では,主題となるのは‘他人’との関わりのなかでの‘ボク’(私,主人公)である.そこでは‘出会い’が描かれる.薄っぺらなキャラクタや舞台設定が,出会いを重ねることによって何がしかの内実を得てゆく【とはいえ,これはあくまで「戯言シリーズ」において,とくに『ヒトクイマジカル』においてのみの特徴かもしれないが】【そういえば未だに『ネコソギラジカル』を読んでいない】.
沙藤一樹の作品の主題は「関わり」そのものである.セカイや‘ボク’といった個々の項ではなく,それらの項がなす関係そのものに重きがおかれる.そしてその関係はガラス細工のように‘はかない’:沙藤一樹の小説では複数の‘語り手’が設定され,それらの視点からあるコミュニティが描き出される.それはコミュニティやそこでの交わりの‘嘘’をあらわにするだろう【フィクションとしての交わり.その壊れやすさ.純粋さ――たとえば「空中庭園」や『X雨』のような作品】

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ギー兄さんの考えそのものが,ダンテの引用によってなりたっているということができる.自己の内面をダンテの引用で埋めつくすことによって,ギー兄さんはかれ自身の人生が理解しつくせた,と感じる.