人格の複数化

テツガクな先輩,通称テツ先輩は,自らの臨床経験から‘人格の複数化’を認める立場にたつ.‘人格の複数化’という事態を示すデータとしてテツ先輩はヒステリー患者の「もう一人の自分」体験に注目する.たとえば患者さんの il y a deux mois(2人の私がいるんです)という呟きや「私がもう一人いるんじゃないかと思っている」という語りをとりあげる.
それにたいしては以下のような異論を持っている:ヒステリー者のそうした語りは‘人格の複数化’を示すものではない.ヒステリー者の語りは「I(主我)とme(客我)」「見る自分と見られる自分」という概念を用いることで,人格の複数化を想定しなくても解釈可能である(※).そうである以上,人格の複数化という事態は想定すべきではない.

      • -

私たちは自分自身の状態を観察(体験)し,語ることができる【自己反省,自己言及】.
自己反省をおこなうとき【あるいは,その事態をあらためて語りの対象とするとき】,〈私〉の状態(時点1)は,観察者である I(主我)と観察対象である me(客我)とに分かれたものである【と事後的に構成することができる】.この主我と客我とに区分された〈私〉を再帰的に語らいの対象とする(時点2)ことで,下記のような語りがもたらされる:

時点1(反省の時点):I ―(視る)→ me
時点2(語りの時点):I ―(語る)→ (I ―(視る)→ me)

【時点1における〈私〉は‘I ―(視る)→ me’という構造(反省の構造)を孕んでいた.その時点1の〈私〉が時点2においては語りの対象となり me の項に代入される】【しかし,そもそも語りの時点に先立つ反省の時点なるものは在ったのだろうか.むしろ反省の時点とは語りをおこなうことにより,遡及的に構成されるものではないだろうか.ともあれ】

自己観察(自己言及)は
(((((私)を視る私)を視る私)を視る……私)を視る……)
という無限遡行のプロセスを可能性として秘めている.自己観察の無限遡行において反省ないし語らいの対象となる〈私〉は無限に産出されうる.この〈私〉を‘名づける’ことが,多重人格とよばれる病理の本質をなす:

1.(((((私)を視る私)を視る私)を視る……私)を視る……)
2.(((((私0)を視る私1)を視る私2)を視る……私n)を視る……)
3.私0,私1,私2,……,私n,……

【たとえば,この場に書き込みを行なっている〈私〉に somamiti という名を与え区分けするように】

      • -

先日,テツ先輩から以下のようなコメントをいただいた:somamiti 君の好んで用いる「I」と「me」、「みる自分」と「みられる自分」といった概念対を、私はあんまり使いません。……ただ「みられる自分」・「みる自分」といった概念系は、まず「統合されている、一人の自分」という前‐解釈あってこそ、成立したものであるようにおもいます.
君がいつも語っておられる「人格は一人の人間につき、一つのものであるべき」という理念は、倫理的要請としては適切なものです。でも臨床的記述に際してはやはり不適です。換言するならば、記述に際して「間口の広い」概念たりえないのです。「間口の広い」とは、問題となるであろう事象のさまざまな側面を、可能なかぎり多く考慮に入れるような可能性を持ったということです。

それに対する応答: somamiti の考えがすでに「一人の自分」という前‐解釈【先入観】によるものだというご指摘はその通りだとおもいます.そしてまた somamiti は,「私がもう一人いるんじゃないかと思っている」という患者さんの語りは,まずはそのように患者さんが語っていることとして観察・記述される‘べき’だと考えています――患者さんはそのように語らざるを得ないがゆえに【人格の複数化などなくとも】そう語るのかもしれません.そして本当に人格が2つ(乃至それ以上)〈在る〉のかもしれません.しかし,それらは判別不可能なことではないかと考えています.
「人格」とよばれているモノゴトは,もともとフィクションとしての性格をもつとおもわれます.現代の社会は「1個の身体に1個の人格(あるいは主体)」というフィクショナルな前提に立っているようです.「もう一人の自分」体験を語る患者さんの在りかたを現代社会の前提に‘合わせて’ゆくためには,「人格は一人の人間につき、一つのものであるべき」という理念に沿って患者さんの在りかたを読解し,必要とあればその解釈枠組みを患者さんに刷り込むほうが,より‘治療’的ではないか.極端にいえばこのような考えを somamiti はしています.

      • -

倫理的要請としては御説ごもっとも――かもしれない.しかしおもえば,そうした倫理的要請の名のもとに何が何でも人格のコルセットをはめ込もうとするのは,かえって患者さんの多様なありかたを見失わせ,ひいては不適切な介入につながる危険もあるだろう.「臨床的記述に際してはやはり不適」というのはそうした危険を指摘してくださったことであるようにもおもう.
それにしても,人格についてお喋りを改めて書き記してみれば,そもそも人格とはなにかということ,人格という語によってどのような現象を指し示しているのかということが自分にとって明確でも具体的でもない.そこに,多重人格の問題について語るときの割り切れなさ,胡散臭さがあるようにおもう【人格とは‘自己反省(自己言及)をなすユニット’なのだろうか,それとも語源である person の示すような仮面――自らを含んでの観客たちに示される‘何者かとしての現れ’なのだろうか,等等】【人格の仮面性と多重人格のキャラクター性(虚構性)――といった主題にまつわる論をどこかで読んだことがあるようにおもう】.