曲がり角の彼方

クリスマス・テロル』をパラパラみかえす.そういえば友人がこの本を渡してくれたのは,沙藤一樹の『X雨』との関連においてのことだった.いずれの作品においても小説世界と連続させるかたちで‘わけあってもう書けません(書きません)’という告白が書かれており,それは作者のプライベート(私秘的)【あるいは内面】の暴露ないし侵入として,いわば‘虚構’と‘現実’のコンタミネーションを【意図的に,あるいはポーズとして意図的に】行なうといった体裁で仕立てられていたようにおもう【そして『X雨』ではそれがより技巧的なだけ,より小説として価値があると当時はおもっていた】.

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書かないこと,書くことができないこと,そうしたことがらを巡る作者のプライベートに焦点をあて,それを小説において【あるいは編集や業界など,小説と‘地続き’の世界において】語ること,そうした事からは【いまだに】たとえば〈作者の死〉や金井美恵子(とくに初期作品)あるいは太宰治の「女生徒」といった作品を連想する【というよりも太宰治そのものがそうしたあり方――〈作家〉という領域における虚構と現実のコンタミネーションに意図的な――をする作家であったようにも感じる】.

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引用,あるいはオリジナリティの死.私は書くことはできない.あるいは私が書いているものは私が産み出したものではなく,私は書いているのではなく書かされているのだという意識【ちょっとシュルレアリスム的ですね――自動書記】.
近ごろラジオを聴いていると‘俺は踊らされているのではない.踊っているのだ’という旨の歌声が耳にとまり,それと同じ言葉をかなり以前にある方からうかがい,そこにはさらに原版(オリジナル)があるだろうこと.ふとそうしたことを思いだす.
さらに気ままな連想をつづけるならば,引用ないしオリジナルの問題は,生きていることのリアルらしさ(リアリティ);ほかならぬ私がこれを為しているのだという感覚にかかわる問題と連続するだろう【そうした問題設定による「トカトントン」論を目にしたことがあるようにおもいます】.
そして「女生徒」における‘借り物の言葉’という感覚の源泉の一つにはドストエフスキーの『地下室の手記』があるだろうという根拠のうすい憶測から,さらにそうした感覚は‘ポリフォニー的’と称される語りのあり方――ひいては‘カーニヴァル化する世界’というモノゴトの語りかた(記録のしかた)とかかわりがあるようにおもう.