ドラえもん

先日,旧友と会う。知らぬまに共通の知人ができていたことがあきらかになり,世間はせまいものだとわらう。

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その方は生物学を専門にされておられる.よい機会だとおもいかねてから疑問だったことについて尋ねる:「植物のウイルスはヒトに感染するのだろうか.感染しないとすればそれはどうした理由からだろうか(ヒトのウイルスも植物のウイルスもともに核酸からできているという点では同じモノであるのに)」.その他,いろいろと興味ぶかい話がきけて楽しかった.

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そのなかで出てきたのが‘ウイルスは物なのか生命なのか’という話.
‘生命とはそもそも自己複製する能力をそなえた系(システム)のことで,そうした能力を欠いたウイルスは生命として認めることができない’という考えと,‘ウイルスは人間の技術によって物を材料に組み立てることができる.そのようなモノを生命とみなすことには抵抗がある’という感じが並列して語られることがおもしろい.


生物学が‘生き物’について研究をして,その結果として‘生き物’と人々が考えるモノに普遍的である性質(いわば生命の本質)として自己複製系としての生命ないし生物という定義があきらかになる.生物の定義に先立ってすでに‘生き物とはこのようなモノだ’というイメージがある.‘生物は自己複製系であるという定義によればウイルスは生物ではない’という論に先立ちそもそも‘ウイルスは生き物ではない(生き物らしくない.ウイルスは人工的に作ることもできてしまうのだ)’という見方があり,それによってすでに判別は終わっているように思う.そのような話をする.

生物学が生物(あるいは生命)の本質を明らかにすることに先立ち,生き物について人間はすでに十分に‘わかって’いる.‘すでにわかっている’ことについて改めて‘何がわかっているのか‘を明らかにすること,すでにアタリマエに使われている‘生き物’という言葉なり概念なりが,実のところどのようなモノコトを指しているのかを一般的・抽象的に表現すること――生物学の知見によって‘生物(生命)とはなにか’という疑問に答えることはそうしたことであるようにおもう.

そして友人によれば,実際のところ日々の研究のなかでは‘生物とはなにか’という疑問は回避している――というよりも,まずは目の前の対象について(概念による判断をひとまず停止して)知ろうとすること,それが自然科学の営みなのだ.その友人の(ほろ酔い気分の)セリフを借りれば「科学は現場で起こっているんだ!」ということで,これはこれで面白い話題であるが割愛.生物学の営みによる‘生物’イメージのとらえ返しについて考えることは,いわば生物学学の領分なのでしょう.

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そして思いおこしたのが「ロボットの心」で用いられている喩えである.
それによれば‘ロボットに心がもてるか’という質問をいきなり大学生にすると,大半の学生は迷わず「NO」と答える.しかしそこで「じゃ,ドラえもんには心がないわけ?」と尋ねると「彼らは一様にのけぞって,「えっ,そりゃ,ずるいよ」といわんばかりの顔をする」という.

ドラえもんは作り話の登場人物で,作り話ならば何でもありで,それこそ‘現実はどうあれ’心をもつロボットがいるという設定もありなのでしょう.やっぱりずるいですよ.と書いてはみたが,そもそも『ドラえもん』においてドラえもんが心をもつロボットだと明白に述べられているか否かは寡聞にしてしらない.おそらくそのような箇所はないようにおもう.にもかかわらず『ドラえもん』の世界は「心をもつロボットがいるという設定」なのだと自然に記してしまったとき,すくなくとも私は‘ドラえもんには心がある’という立場をとってしまったようだ.それはさておき.

友人との話やドラえもんの比喩であらためておもったのは,心理学にもとづいて心について知ることに先だち,人々は‘こころ’について‘すでにわかっている’ということである.心理学の知見をもとにした心の定義が確立され,その定義をもとに例えば‘ロボットには心はない’という判断を下す.その場合も,それに先だち‘ロボットに心があるなんてありえない(人工物であるロボットに心があってはならない)’というイメージなり判断なりが漠然とながらあるのではないか――‘生物学・生物の定義・生き物’と‘心理学・心の定義・こころ’という関係にはアナロジーが成立するようにおもう.

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