ちがうところにいる私

自我について,主我と客我という区分がある.

私が何を考えているときでも、私はそれと同時にいつも私自身、私の人格的存在を多少とも自覚している。また同時にそれを自覚しているのも私である。したがって私の全自我(セルフ)はいわば二重であって、半ば知者であり半ば被知者であり、半ば客体であり半ば主体であって、その中に識別できる二つの側面がある。この二側面を簡単に言い表すために一つを客我(Me)、他を主我(I)と呼ぶことにする。私はこれを「識別された二側面」と言い、別の事物とは言わない。なぜなら、主我と客我の同一性は、この二側面を識別している最中においてさえも最も否定困難な常識上の定説であり、したがって研究の結果、その妥当性についてどう考えるようになろうとも、最初からわれわれの用語法によってこの定説を損ねてはならないと思うからである。
W.ジェームス『心理学』(ISBN:400336404X

私には知る私と知られる私の二側面がある.客我(Me)は知られる客体としての自我,主我(I)は知る主体としての自我である.

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「神経に棲む者たちへ」と題された天野可淡の文章に「子どもの頃,真夜中のベッドの中で,そこにある自分の肉体と,それをあらためて意識している目に見えぬ別の自分との接点がさがせなくて悲鳴をあげたことが有ります」という一節がある【その後には「きっと前の日,日焼けで剥がれた皮膚や花びらなどを顕微鏡で永いことのぞいていたせいかもしれません」という言葉がつづき,それも興味ぶかい話題ですが,とりあえずそれはさておき】.シンプルにいえば,「そこにある自分の肉体」を客我,「それをあらためて意識している別の自分」を主我として置くことができるだろう【もちろん,それを単に「主我」とすることはまちがっています.「接点」をさがしはじめた時点において,「肉体」を「意識している別の自分」もすでに知られる対象としての自分すなわち「客我」となっていますから】.「主我と客我の同一性」すなわち主我も客我も同一の「私」の二側面であるということは「最も否定困難な常識 common sense 上の定説」である.しかしその定説のもとにある常識(一般的なセンス)が失われた場合,「主我と客我の同一性」あるいはその「接点」を確保するすべはあるのだろうか.

人形は人の形をした「物」である.人形は「物」でありそこには「生命」も「心」もない.人形が生きている,人形がなにかを感じているという主張は馬鹿げたことだとソマミチは考える.しかし一方で,ある種の人形を眼にしたとき,ソマミチはそこになんらかの「心」を感じる;(まるで)この人形は私をみている(ような気がする).
ヒトは人の形をしている「物」であり,なおかつ「生きて」いる.そしてなにかを感じる「心」をもつ.しかし一方で,ヒトをみたとき,ときにはヒトと話をしているとき,そこに「生命」や「心」を感じないことがある.もちろんそれは錯覚にすぎない――と考える.
しかしフシギなのは,ヒトに「生命」や「心」を感じることができる,感じてしまうというそのこと自体だ.
【他の生物体に「生命」や「心」をみてとることが生物個体の生存に役立つ.だからそのような形質が進化の過程で発生・発達し,いまのヒトにもそなわっているのだ,という説明を考えつきました.[id:somamiti:20050121]参照.しかしこの説明,‘現にそうなっているのは,なるべくしてそうなったのだ.現にそうなっていることが,そうなっていることの証拠だ’といわれているようでイマイチ満足できません】.

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(ある種の人形をみるとき,その人形にみられて(魅入られて)いるように感じ、自分がウツロになっていたような気分になることがある.このときの「私」の在処――)