ファミコン

「物」や「脳」とは〈‘違うレベルのコト’として「心」や「私」のための‘領域’なり‘次元’なりを確保しよう.気になるのは,そうしたコトがら(それらのデータ)の記録媒体はあるのか.あるとすればどこに、ということだ.
それらもまた「物」の配列に記録されているのではないのか〉という問い.その答えは〈「人であった幼なじみと虫の集合体・擬態としての「幼なじみ」に違いはない」「その「人間」の構成要素のうち,モノとしての部分が細胞から成るか,‘虫’から成るかの違いにすぎない」〉という言葉のうちにある.「コップ」にとって〈それが陶器製かガラス製かステンレス製かといったことは問題ではない〉.いずれにせよ「コップ」であることには変わりはない.それと同じく「心」や「私」あるいは私にとっての「幼なじみ」を成立させている「物」,「心」や「私」についてのデータの記録媒体として働いている「物」,そうした「物」が具体的に何であるのかということは問題ではない.「心」の基盤としての「脳」が実のところシナプスを介したニューロンの回路であろうとホルモンを介した体細胞のネットワークであろうとフェロモンを介した虫たちの‘社会’であろうと‘無機物’からなる論理回路であろうと,そうした違いは「心」にとって問題ではない;「心」は「脳」に依-存しているが,その依り代たる「脳」が何であるのかということは実のところ問題ではない
【極論すれば,「心」という機能はナマモノとしての「脳」から独立した‘存在’である:「心」と「脳」は次元がことなる存在(あるいは現象)である】.こうした考えは〈心身問題(心脳問題?)における「機能主義」という立場のものらしい〉.

しかし〈機能主義的な考えが成立するとして,それではそのような「機能」(あるいは‘意味’や‘価値’)はどこにおいて,なにが読みとっているのか〉.それは〈「情報」の「受け手」――というよりも「読み手」のことを考える〉ことによって感じる割り切れなさであり〈色や落下現象について「色は電磁波のごく一部であり,落下現象は力学法則から出てくる一現象である」とする記述をみたときに感じるものと同じもの〉である.

                                                          • -

ここしばらく「標準精神医学(第2版)」なる教科書を読んでいる.

            • -

「第3章 精神発達」において,幼児期から学童期(小学生の時期)にかけての発達と‘ファミコン’などのかかわりについての以下の記述がある:

いまの日本ではテレビやファミコンが普及している.子どもは乳幼児期から親のみならずテレビやファミコンに囲まれて成長している.現代は「人間関係を介した遊びが主で,機械を介した遊びは従であるという時代から,機械を介した遊びが主となる時代となっている」.
(p.60.)

(学童期には勝つことと負けることを経験することが大事である.しかし近年では)十分に勝ち負けを経験していない子供が多い.その要因としては,ファミコンなどの負けてもすぐにリセットできる,機械を介した遊びが子どもの主役になったことがある.
 ファミコンにはもう1つの特徴がある.ファミコンでの戦いはいくら迫真の戦いであったとしても,しょせん疑似体験であり,痛くもかゆくもない.子どもの毎日のなかに疑似体験が増えていくと,現実体験と疑似体験の境界が不鮮明になる可能性がある.ゲームは勝つまで続けられる.いつも勝っていると,自分の力に対する幻想(万能感)を卒業できないという問題がある.本来遊びの勝ち負けには,触覚,痛覚などの身体感覚を伴うものである.これが,自分の力が幻想的に膨らんでいくのを防ぎ,喧嘩などの際の手加減や「これ以上やると危ない」という感覚を育み,将来の激しい行動へのブレーキとなる.
(p.61.)

こうした意見はよく目にする.1980年代,たとえばファミコンソフト‘ドラゴンクエスト’にかかわる事件などが話題になった頃からあらわれた論であるようにおもう(ちなみに標準精神医学の第2版は2001年,第1版は1986年に出ている).ありふれた意見としてつい低く評価してしまうけれども,そこにも何がしかの価値はあるとおもう.とくに,それを書かれた方の実感にもとづく見解として.
ただ,機械を介した遊びと人間関係を介した遊びを単純に2分することには違和感がある.学童期のころファミコンを持たず,テレビもさしてみない生活を送っていた子どもが、人間関係を介した遊びを専らしていたかといえばそうではなかったようにおもう.むしろファミコンを持っている子どもやテレビ番組に詳しくお笑いタレントの真似が巧みな子どものほうが,人間関係のなかでも中心に位置し,それゆえに人間関係を介した遊びもよくしていたように感じる.そしてまたファミコンやテレビを介した付き合いによく適応できる子どものほうが,大人になってからの‘情報’を介したつき合い――たとえばテレビや新聞のニュース,野球やサッカーなど,そうした話題を手がかりにしての世間的な人づき合いにも適応でき,より人間関係に,ひいては世間に適応できる人物になるようにおもう.

      • -

学童期の遊びというと‘秘密基地’ということが連想される.もちろん‘秘密基地’は‘秘密’であることに価値があり,具体的にそれが何であるか(たとえば居住性,たとえば戦略性)などは実のところどうでもよかったようにおぼえている.
‘秘密基地’を舞台にしての‘ギャングエイジ’たちの遊びは学童期の発達課題を満たす遊びの理想型のように語られることがあるようだ.そうした遊びは‘人間関係を介した’‘触覚,痛覚などの身体感覚を伴う’遊びであり,それゆえにファミコンなどの機械を介しての疑似体験とはちがう――というわけだ.このような考え方にたいしてもソマミチは違和感をおぼえる:‘秘密基地’を介する遊びが人間関係を介した遊びであることと同様にファミコンを介した遊びも人間関係を介した遊びであり,ファミコンを介した体験が疑似体験であるのと同じく‘秘密基地’を介する遊びもまた擬似的な――そこに触覚や痛覚が伴うか否かということはあくまで副次的な――ものだったと感じる.

‘秘密基地’を介する遊びで一番大切な要素は‘基地’へのアクセス権(その有無)だったとおもう.‘ワタシとアナタはこの基地へのアクセス権をもつ仲間だ’‘キミにも特別にアクセス権を与えよう’‘ここは秘密基地だ.敵に教えてはいけない’などなど.虚構の文脈およびそれを背景とした‘秘密’によってこそ,‘秘密’を巡っての人間関係を介する遊びも可能となった.‘秘密’を巡っての,それを知るものと知らないものとの二項対立,‘秘密基地’という場所やそこから視ることのできる風景(シーン)にアクセスできるものとできないものの二項対立,さらには‘秘密基地’という言葉が意味をなす虚構の文脈に与るものと与らないものとの二項対立.

これとおなじ二項対立は,ファミコンなどの‘機械’を介する遊びにおいてもみいだされることだと思う:たとえばファミコンソフトの貸し借り,ある‘裏技’に関する情報のやり取り,ある情報(たとえば特定のコンピュータ・グラフィクス)についてのアクセス権(権利ないし能力.ひいては感受性)を相互に確認することによってうまれる連帯感など,そうしたことがらにかかわる二項対立として.

【このような発想は‘ファミコン’が貴重品だった時代に幼年期を送ったものの発想であるようにもおもう.また,‘秘密基地’での遊びとファミコンを介した遊びとを一つに括ろうとして,ファミコンを介した人間関係とファミコンを介した遊びを混同して話をすすめているとおもう.しかし‘機械’との関係と人間関係とを単純に2分することはできないという事情は,昨今においても変わらないようにおもう】.

                  • -