私と名指し

「私」について考えたことに関して似たような話をいくつかしていただいたのでそのことにかかわるレス――というよりも断片的なメモ書きを.

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人と人との関係や自分による自分の把握(いわゆる自己意識というやつでしょうか)において,そこにあらわれる「私」や「心」は,その基盤にある「脳」や「物」(細胞たちや分子に原子たち)とは異なる階層にある――そのようにソマミチは考えています.いまここでこうしてディスプレイに文字が表示される,その文字の表示にとっての物理的な基盤(ディスプレイの構造など.詳しいことは知りませんが)と,その文字のあらわす意味や文字の見易さは違うレベルのモノゴトだというのと同じかたちの考えです.

【しかし,体調が悪いことで気分が陥込んだり,そのことによって‘論理的’に思考することが妨げられたり,さらには部屋の片づけをすることでなんとなく気分がスッキリして,さて日記でも書きましょうかという気分になるあたりが割り切れず,面白い点です】

肉体を構成する細胞や物質が入れ代わってまるで別物になっても自分は自分だという感じ.あるいは(SF的な道具立てをつかえば)ある‘転送器’によって‘私を構成するデータ’が転送され,そのデータをもとに転送前の自分とは同一ではない(しかし同種の)物質を用いて‘再現された自分’もまた自分であるという感じ【なかなか迂遠な表現.「ロボットの心-7つの哲学物語 (講談社現代新書)」などで手頃に紹介されていたようにおもいます】.
それに寄与しているものとして,まず思いうかぶのが‘子ども時代の自分の体験が自分のコトとして感じられる’ということ(記憶の連続性?),そして次に思いうかぶのが‘過去の自分も今の自分もモノとしては異なるけれども,同じ名前をもっている’ということです(名前の連続性 or 同一性?)【と書いた時点でカビくさくクラシカルな匂いも漂ってきます.がいつものことなので気にしないことにします】.

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#どうやら記憶なり‘社会’なり(そして意味や‘名指し’など)を「物」と違うレベルのコトとして置こうとしているようだ.‘違うレベルのコト’として「心」や「私」のための‘領域’なり‘次元’なりを確保しようとする考えのようだ.そこで気になるのは「それらのコト(それらのデータ)について記録媒体はあるのか」「あるとすればどこに」ということだ.それらもまた「物」の配列に記録されているのではないのか.(たとえば「ペンフィールドも「脳はコンピュータ,心はプログラマーと言明している」がしかし「コンピュータに組み込まれれば,ソフトはコンピュータの一部になる」のだから(「「私」は脳のどこにあるのか」p.51),そうしたレベルのコトはあくまでヒトの眼にうつる虚構なり仮象なりにすぎず,それらを規定するもの,それらを担う実体はあくまで「物」ではないのか).

#シャノンの情報理論のことをおもいうかべる.シャノンの情報理論が問題とするのは,いかにしてメッセージを正確に伝達するかという技術的(technical)な問題であり,メッセージの伝達にかかわる問題にはほかに,意味論的(semantic)な問題(伝えられたメッセージがどれだけ正確に意図した「意味」を伝えているか)および効果についての(effectiveness)問題(伝えられた「意味」がメッセージの受け手(その行動)にどのような「効果」をもたらすか)があるという.教科書で情報という言葉をたびたびみかける.情報伝達物質や細胞内情報伝達の過程.そうした言葉をみるたびに,「情報」の「受け手」――というよりも「読み手」のことを考える.