擬態論

あるときあなたは虫に寄生される.その虫はあなたの肉体の1部を食す.その過程において虫は,その場所が周囲とおこなっていた情報のやり取りを読み取り,そのやり取りにおいて成立している関係の1項に成り代わる(麻雀の卓において面子の一人が途中で入れ代わったとしても,その麻雀の流れそのものは続行されるように).そしてその虫はあなたの1部に置き換わり,さらにそこから新たな虫が生まれ,あなたの肉体を蝕みそこに置き換わる.そのようにして,いつのまにかあなたの肉体はすっかり虫たちの集合体に置き換わる.あなたは自らを人間として思いなしており,周囲もまたそのようにあなたを遇するが,いわばあなたは虫たちの擬態した姿なのである.

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〈あるとき,あなたは幼なじみと再会する.その幼なじみはじつは虫たちの擬態によるモノである.もしそのことを知ったとき,あなたはその虫たちの擬態したモノのことを,幼なじみとして受け入れることができますか.〉

先日京都をおとずれた折りに,幾人かの知り合いに上記のようなSFじみた想定の質問を行なった.返ってきた答えの多くは「人であった幼なじみと虫の集合体・擬態としての「幼なじみ」に違いはない」「その「人間」の構成要素のうち,モノとしての部分が細胞から成るか,‘虫’から成るかの違いにすぎない」というもので,その無邪気なまでに明朗快活な答えに少々めんくらってしまうほどだった.

一人の友人がいうことには,ここで表現された考えは,心身問題(心脳問題)における「機能主義」という立場のものらしい.すなわちコップを考えた時,そこで重要なのはコップとしての機能であり,その機能を果たす限りにおいて【コップとしての意味を周囲との関係において持つ限りにおいて】それが陶器製かガラス製かステンレス製かといったことは問題ではないという立場だそうです.

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機能主義的な考え方には、納得できる一方で気持ち悪さも感じる.それは,機能主義的な考えが成立するとして,それではそのような「機能」(あるいは‘意味’や‘価値’)はどこにおいて,なにが読みとっているのか,といったコトについての疑問のようだ.