心と物

人形は視覚を備えていない。視覚受容器すなわち光刺激を化学反応を介して神経系における電気信号に化する仕組みがない。そのような信号を処理して「卵」や「パン」といった意味付けをあたえる仕組みもない。眼球と脳をもたない。刺激を受容する仕組みとその刺激に由来する物の変化によって何らかの行動があらわれるような、そういう仕組みがない。人形は物をみない。一枚の紙切れが物をみないのと同様に。
ココロは物と物理法則によって生じる。‘心の活動’は物の配置と物理法則による結果である。ココロは実在しない。錯覚に過ぎない。

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たとえば機械が光学的なセンサーによって周囲の状況を「感知」し、その状況に応じて自らの「行動」を変える(「行動」が変わる)とき、機械はものを見ているのだろうか。
1:機械は眼球と脳をもたない。ゆえに機械はものを見ない。
2:光刺激により生じたモノの変化が、モノの配置と物理法則に従ってその機械の動きを変える(その運動は変わらないにせよ、すくなくとも変わるか否かという‘処理’の対象となる)のならば、その機械はものを見ているといえる。

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たとえばヒトが計算する。それは脳や神経系の活動による。すなわちヒトが計算している(と錯覚している)とき、それは実は物の配置と物理法則による結果にすぎず、そのように錯覚しているヒトは自らの判断によってしかじかの答えを導き出したと思い込んでいるが、それは錯覚にすぎない。たとえば「1+1=2」という計算の実行を引き起こす分子や原子の配置が再現されたならば、われわれは同じ計算をすることになるだろう。そうして同じ答えを発することになるだろう。
(ココロなるものは錯覚にすぎず(錯覚している主体は何者なのか、ということはさておき)、そこにあるものはモノだけであって、ココロは存在しない。だから、モノの状態変化は計算の実行を「引き起こす」のであり、それに「伴う」のではない)
‘計算をしている’と私たちが錯覚しているとき、そこで本当に起こっているのは物理法則に従った物の状態の変化である。

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cf. 中国語の部屋

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ゆえにコンピュータは計算できない。計算機が‘計算をする’機械だという考えは私たちの錯覚(錯覚している主体は何者なのか、それはさておき)にすぎない。
‘本当の意味で’計算することのできるコンピュータを造るためには、たとえば「1+1=2」という計算(その錯覚)を引き起こす脳神経系の分子や原子の配置をすべて再現する必要があるだろう。

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以上の考えの筋道の、どこかがおかしい。