心と物

心的なもの,たとえば感情や思考は物と物理法則の産物だ.それゆえに物の配置を再現することができるならば,ある人がある時に抱く感情や思考を再現することができるだろう.だから私たちが自由意志と呼んでいるものは錯覚にすぎない.私たちは自分の意志によって判断し行為しているのではない.
そして世界は完全に決定されている.たとえば‘偶然の出会い’なるものもない.すべての物事には原因がある.そして世界に実在するものは物のみであり,物は物理法則に従って運動する.私たちが‘偶然’だと感じることがらも物の配置と物理法則から導きだされる必然の結果なのだ.

「したがって,われわれは,宇宙の現在の状態はそれに先立つ状態の結果であり,それ以後の状態の原因であると考えなければならない.ある知性が,与えられた時点において,自然を動かしているすべての力と自然を構成しているすべての存在物の各々の状況を知っているとし,さらにこれらの与えられた情報を分析する能力をもっているとしたならば,この知性は,同一の方程式のもとに宇宙のなかの最も大きな物体の運動も,また最も軽い原子の運動をも包摂せしめるであろう.この知性にとって不確かなものは何一つないであろうし,その目には未来も過去と同様に現存することであろう」
確率の哲学的試論 (岩波文庫)

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心でなされた論理学的推論と計算機でなされた論理学的推論(いくつかの前提と推論規則による推論)の違いはあるのだろうか.
ココロの状態と肉体の状態は一致するのか:悲しくてわらう.うれしくて泣く.ココロの状態というよりは外にあらわれた言葉なり外からみられた表情なり,そうしたサインの分類と,肉体の対応.
うれしい,かなしい,しあわせ,いかり,おかしさ,このような体験もまた脳や神経の状態,つきつめれば物の配置と物理法則によって規定されている.---ならば,では「うれしい」「かなしい」という状態は‘存在しない’のか(あるいは幽霊や錯覚のように,それは見かけのことにすぎず(さながら映写機のフィルムによって産み出されるスクリーン上の映像のように?)‘本当は’そこにあるものは物と物理法則なのか(私が悲しいのは友だちが死んだことを知ったからではない.実は脳神経における物の配置が「悲しみ」に対応する配置になったからなのだ.そしてその配置の原因として挙げられるのは,聴覚刺激という感覚であり,さらにはむしろ聴覚でさえない,鼓膜に触れた空気の疎密波という物理現象の,物理法則に基づく作用である).---?

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