美とセンス

ある食べ物が美味しい’という判断を,ただ個人の好き嫌いにかかわることとして終わらせない場合,たとえば「美食」や「食通」としてその判断を通用させる場合,「これは美味しい(美しい)」という判断が他の人々の賛同を得ることが必要になってくるようだ。さながら美食マンガのラストのように.美(あるいはセンス,美的判断)はただ主観的(わたし一人)なもののみならず,どこかで客観的な,他のヒトにとってもそうであるような(人間共同体にかかわるような)ものであるようだ.
しかし,ここでは,美(というよりもセンスや美的判断)が‘どこか客観的’であるとされるその前提として,‘(美しいという)判断を通用させる’というコトが想定されている.それゆえ,「美についての判断は他人の賛同を要求する」「美はただ‘主観的’なだけのものではなく,何らかの‘客観性’をもつ」という旨の見解に関しては,以下のような論が展開できるように思う.
:美,あるいは美的なもの,美しいものとは,さながらお金や子供銀行券のようなものだ;貨幣(紙幣)それ自体には価値はない.貨幣はある共同体において価値があると承認されているがゆえに流通(通用)する.これと同じように,美しいものは皆が美しいと認めるからこそ美しいものであり,そしてそれだけのものにすぎない
:美的判断の妥当性ないし‘客観性’もまた,その判断をなす人のおかれた共同体の違いによって変化しうるものであり,したがって普遍的・絶対的ないし‘客観的’に美しいとされるものは存在しない.
しかし,この論の展開には何かしら抵抗感がある。

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……,主語の概念からだけでは知ることのできないことを述語する判断を,総合判断という.分析判断は,経験とは無関係に,概念の分析だけで立てることができるが,総合判断は経験を前提としている.「この絵は美しい」という美的判断は,総合判断である.総合判断のなかでも,「殺人は悪である」という判断の場合,「殺人」は直接経験されている必要はないが,美的判断の場合,主語となる「この絵」は直接,美的に経験されていなくてはならない.そこに,判断としての美的判断の特殊性があり,また美的判断と美的体験の密接かつ曖昧な関係がある.

佐々木健一「美的判断」『美学辞典』p.200.

#ちなみに『美学辞典』の「美」の項では「民族によって,個人によって,美と認めるものは様々であっても,直感される見事さがある,という点では,あらゆる民族,あらゆる人が認めるところである」として,‘美しいとされるもの’の文化的・時代的・個人的な違いを超えてなおそこにある‘美’そのものの普遍性について述べられている。