名も無き夜のために

たとえば,心臓のない恋人同士のこと.はてしなくリズミカルに,お互いの体の一部を摩擦しつづける恋人たちのこと.心臓のない彼らはそうでもしていないと,血行が止まってしまうのだ.二人は休みなく愛撫しつづける.互いに相手の心臓になって,初めも終りもない血管の輪に流れを与えてやらなければならないのだ.だからもし恒久運動が成立し得ぬものだったら,し得たとしても,どちらか一方の手が思わず緩むことでもあれば,たちまち相手は蒼ざめ,弱ってしまうに違いない.するとその手も弱ってくる.従ってこちらも血の気が失せるだろう.二人はますます蒼ざめ疲れてくる.どうにもならず,互いに見つめ合う悲しい眼差し,……

「名も無き夜のために」『夢の逃亡』

安部公房大江健三郎.作中にどことなく‘不条理’なシチュエーションが描かれるという点で似ているように感じるが,しかし,やはり違うと感じる.
大江健三郎では,どこかしら‘共同体’や‘歴史’なるものが登場しているようにおもう.たとえばそれらのあいだでのせめぎ合いが描かれているように感じる.一方,安部公房の作品に描かれている状況に通底するのは‘共同体’や‘歴史’の消え去った先にある,あるいはその外にあるナニカだ.どのように表現すればよいのだろうか.そこにはある種の‘ギャルゲー’のような‘閉塞感’があるように感じる(あるいは,‘キミとボク系’とでも表現すればよいのだろうか).

闇や暗がり,翳りのなかにワタシがいる.ワタシの眼の前には(たとえば)少女たちがあらわれる.が,しかし,どこかでワタシはどうしようもなく空虚だ.否,むしろ,ワタシをとりまく世界こそが暗がりのなかに空ろいゆくような,たしかな密度のある充溢でありながらもワタシからは何も見えない場所のようで,そうした場のなかから少女(たち)や奇怪なモノどもが絶えず出たり入ったりする.ある少女が‘ヒロイン’などと位置づけられたりもする.しかしワタシと特別な関係をとりむすぶ‘彼女’さえも幽霊のようで,どこか馴れ馴れしく,どこか不気味で,とらえどころなく空ろい行く.

(たとえば,『密会』のラストシーン……骨が溶けてゆく少女の崩れゆくカラダ……闇のなかに閉じこめられて,少女は「先生,さわって」と語りかけ,ワタシは闇のなかで少女のカラダに触れる)