金閣寺

久しぶりに『金閣寺 (新潮文庫)』を読むことになる.あらためて読み返しておもうに『金閣寺』には目ないし視覚,視野にかかわるたとえが満ちていて,それは〈私〉の行動なり思考なりを規定するもののようにおもえる.

人間として生きてゆこうとするとき,その生が迫ってくるとき,〈私〉は「金閣の目をわがものにしてしまう」.そのとき「私と生の間に金閣が現われる」.永遠の,絶対的な金閣の目から世界をみるとき,金閣以外の世界のものごとはすべてが同格となってしまう.その世界ではさまざまなものごとがなされるが,「私は蜂ではなかったから菊に誘われもせず、私は菊ではなかったから蜂に慕われもしな」い.その世界では「金閣だけが形態を保持し、美を占有し、その余のものを砂塵に帰してしまう」.

この目,あるいは見るという問題は私の内面の問題と深くかかわる.自らの悪事は,自らの〈悪〉は隅々まで見通されているのではないか.「老師は私のことを隅々まで知っておられます.私も老師のことを知っておるつもりでございます」.ある出来事をきっかけに,私のなかにおいて老師は見る/見られる関係において対をなす項となる.「私に見せているのだ」「私に見せるためにああしているのだ」.また私はある和尚に問う.「私を見抜いてください」.そして答えは,「見抜く必要はない.みんなお前の面上にあらわれておる」.残る隈なく理解されたと感じた私はいよいよ行為へと動きだす.「義満の目,義満のあの目」「すべてはあの目の前でおこなわれる.何も見ることのできない,死んだ証人のあの目の前で」.

私の内界と外界は吃音という「この錆びついた鍵」により閉ざされている.その鍵をあけ,内界と外界を「吹き抜け」にすること.そのために私は金閣を焼く.

さらにいえば〈私〉の宿痾である吃音,また柏木にみちびかれ〈私〉もしばしその美に与ることになる音楽,その美と生との連関について,さらに行為にいたる最後の関門としてあらわれる金閣の美と,それに際して思い起こされる臨在録の一節――「裏に向かい外に向かって逢着すればすなわち殺せ」について連想してゆけば,いよいよもって色々なことが思い浮かぶ.