手紙‐引用‐論,構造主義/女生徒

――つまり個人思考に対する集団言語の優越性,「人間は死んだ」という主張は,もう10年あまりも前に「ヌーボー・ロマン」ととくに「ヌーボー・テアトル」のなかで表明されているものなのである.
 すでにアラン・ロブ = グリエは,作者と登場人物双方の主観を粉砕し,かわりに非人称的「まなざし」をもってきたが,これはフーコーが文化の諸時代をみるときのまなざしと同じなのだ.サミュエル・ベケットになると,もっと強烈にその主人公にこういわせる,「私は言葉から,他人の言葉からできている」,「私は存在していない.これは周知の事実だ」.さらにイヨネスコにおいては,これは「反世界」となり,フーコーの「外側からの思考」を予告することになる.


ドムナック「構造主義の登場」『構造主義とは何か―そのイデオロギーと方法 (平凡社ライブラリー)

 自分から、本を読むということを取ってしまったら、この経験の無い私は、泣きべそをかくことだろう。それほど私は、本に書かれてある事に頼っている。一つの本を読んでは、パッとその本に夢中になり、信頼し、同化し、共鳴し、それに生活をくっつけてみるのだ。また、他の本を読むと、たちまち、クルッとかわって、すましている。人のものを盗んで来て自分のものにちゃんと作り直す才能は、そのずるさは、これは私の唯一の特技だ。本当に、このずるさ、いんちきには厭になる。毎日毎日、失敗に失敗を重ねて、あか恥ばかりかいていたら、少しは重厚になるかも知れない。けれども、そのような失敗にさえ、なんとか理窟をこじつけて、上手につくろい、ちゃんとしたような理論を編み出し、苦肉の芝居なんか得々とやりそうだ。
(こんな言葉もどこかの本で読んだことがある)


太宰治「女生徒」

私は他人の言葉からできている.それはそうだろうとおもう.私は(私がおもう私なるものは)言葉でできている.私の思考に認識,感情は言葉によって形になり,私のココロとして把握される.そのとき材料になる言葉とは,それは本来,他者のものだ.私はワタシ語をつくった覚えはない.というか私がワタシ語を作るとき,そもそも私はそのワタシ語をどこで(だれに宛てて)使う気なのだろうかという疑問がとりあえず浮かびあがる.

「私は一人の他者である」という見者のフレーズももはやクリシェと成り果てて,私の言葉はすでに語られた言葉の受け売り,引用にすぎない.もはやオリジナルなんてものは存在しない.劣化してゆくコピーのみが存在する.いや,オリジナルというモノ自体が存在しない複製技術のこの御時世になってはやウン十年.オリジナルがないのであれば「劣化」なんてこともありえない.そこにあるのは果てしなき引用,変奏,反復,・・・

私が他人の言葉からできているとなると,私の言葉,その言葉でつくりだされ語りだされる私の内なるものはそのまま他人とつながっている.それにたいして私はどうスタンスをとるのか.

思う我,その我のなかに他があることで,自己という場そのものがすでに他への開けを内包する場,自と他との交通路となる・・・と考えてみれば,そこに他者理解なりコミュニケーションなりの可能性があるようにもおもえるが,安易な気もする.

そこで極限までつきつめてゆけば,発生するのは私が外に放逐され消え去ってしまうエクススターシス.その恐怖に快感.