本/アリス召還

彼女の顔が美しかったかどうか私にはわからない.左の眼はひきつれて落ちくぼんだ黒い穴としか言いようがなかったし,右の桃色のガラスのささった眼からは大量の血と一緒に,筋にぶらさがった眼球が流れ出して,青白い形の良い透きとおるような耳の下に,まるで桃色真珠のイヤリングのように転がっているのだった.…….そして,私は彼女の身体をすっぽり覆っている白い兎の毛皮を剥ぎ,自分の着ているものを脱ぎ捨てて,その中にすっぽり入り込んだ.それから,彼女のかたわらに置いてあったフードと仮面を被り,獣臭い匂いの中で息をつめて長いこと,じっとうずくまっていた.彼女と私の周囲に盲目の兎の群れが集まり,兎も彼女も私も,じっとしたまま動こうとしなかった.


金井美恵子「兎」『愛の生活・森のメリュジーヌ (講談社文芸文庫)講談社文芸文庫


芳川泰久「アリス召還」『愛の生活・森のメリュジーヌ』解説>


1 金井美恵子は〈愛〉の作家である.その〈愛〉とは〈不在〉ないしその予兆に対して与えられる名である.

1.1 金井美恵子エピグラフや小説のなかでルイス・キャロルを引用し,さながら自らのテクストのなかにアリスを呑みこんでしまっている.

1.2 金井美恵子が小説を〈書くということ〉を小説のなかで相対化するとき,もはやアリスが作中に引用(召還)されることはない.

1.2.1 それらの作品において,金井美恵子は書いてしまった自らの小説にたいして所有者 = 作者という立場ではなく,ひとりの読者としての立場にたち,その読みを次の小説に投げこむという姿勢をとる.

1.3 「プラトン的恋愛」における〈作者〉を巡る考察では,ロラン・バルトの〈作者の死〉(1968,初邦訳1975年10月)とほぼ同じ考えが共有されている.「愛の生活」(1967)から「プラトン的恋愛」(1975年2月)にいたるプロセスは,いわば〈作者の死〉に近づくものであり,アリスを内包する過程は〈作者〉殺しと並走している:〈作者の死〉は「アカシア騎士団」(1974年11月)にすでにあらわれているが,「アカシア騎士団」のエピグラフには『鏡の国のアリス』の最後の「いわば作品そのものを宙づりにする台詞」(He was part of my dream, of cource ―― but then I was part of his dream, too!)とともに,アリスが召還される.

1.4 「プラトン的恋愛」の冒頭でかたられる「彼女とわたしの奇妙な関係」は,〈作者〉である「わたし」の〈現前〉が〈本当の作者〉を名乗る「彼女」の出現で〈再現〉でしかなくなる,という関係である.このような「彼女」の存在は何かを書こうとする者すべてにかかわる条件である:〈書くこと〉は〈読むこと〉同様に,つねに複数性の体験としてのみ成立する.

1.5 「プラトン的恋愛」には〈作者の死〉という問題を提起する枠組みを超えた展開がある:〈作者の死〉は単独者,作品の所有者としての〈作者〉の死である.逆にいえばそれは複数性としての〈作者〉の誕生であり,そこから新たな現代文学が可能となる.


2 「プラトン的恋愛」はそれまでの自己の小説に対する作者の批評でもある:「主人公の前から姿を消してしまう不在の《彼》もしくは《彼女》とは,まさしくこの,いまだ書かれていない作品そのもののことなのだ(……)」.

2.1 金井美恵子はこの〈不在〉を「あの人」と呼ぶ.

2.2 言葉は〈不在〉へとながれこむ.しかしそれで〈不在〉が充填されるわけではない.

2.3. 「いまだ書かれていない作品そのもの」が〈不在〉である場合,〈不在〉への言葉は作品という出来事,書く行為にむけられる.「金井美恵子の言葉は,こうして,いわばメビウスの輪をひとめぐりするようにして,書かれることから書くことそのものの次元に小説の言葉を転位するのである」.それがすなわち自己の小説に対する批評である.

2.4 アリスの伴走の行程は〈作者の誕生〉から〈作者の死〉すなわち複数性としての〈作者の誕生〉にまで及んでいる.アリスはなぜか金井美恵子にとって重要な転回点で召還される.

2.5 アリス的主題に充たされた作品「兎」(1972)は〈書くこと〉への言及にはじまる.この〈書くこと〉という場から,書き手である「私」は〈物語〉の世界に下降する(アリスが夢の地底に降下したように).ここにおいて金井美恵子の小説は〈書くこと〉と〈物語〉のせめぎあう境界的【両義的・周縁的】な場となり,そこにおいては,もはや〈物語〉内世界が〈再現〉するのではなく,〈書く〉という出来事が〈現前〉する.


3 金井美恵子の小説では,アリス召還(伴走,出現)により,いわば〈構造〉の廃棄がなされる.

3.1 「母子像」(1972)では事故にあい言語を失った父と「私」はもはや「父子」ではなく「恋人たち」のように〈愛〉し合う.それは「物の名前のない森」に踏み入るアリス(と小鹿)のようなありさまである:「物の名前」のない領域におけるこの〈愛〉の実践に付与される名前はない.

3.1.1 「母子像」に記されるような近親愛は「黄金の街」(1974)の姉弟のあいだにもなされる(ここでは名前の喪失ではなく死が代償とされる).

3.2 「母子像」において,事故に遭う前の「私」は父への禁じられた〈愛〉ゆえに,その中心に禁じられた「処女」をかかえており,そのような私は「男に色目を使い」周囲の「男が私に夢中にな」るような働きをしていた:禁じられた〈愛〉【空虚,ゼロ,ネガティブ,否定】を中心として,その周囲にポジティブに〈愛〉が生成し,なんらかの〈構造〉と化してゆくという機制(システム)【まるでクモの巣のように】.

3.3 「母子像」や「黄金の街」で記される近親愛は,「空虚な中心」や「ゼロ」を中心に〈構造〉が生みだされてゆくという構造主義的な機制そのものをバラバラにする.

3.4 金井美恵子は自らのテクストを構造主義的な〈構造〉の束縛から解放する.ゆえに,そのテクストには単なる〈構造〉分析は効かないだろう.