神経症と精神病/主体

精神分析は自律する近代的主体を前提している。
生れ落ちたとき、ヒトは己を自ら律することはできない(すくなくともそうした体験は「記憶」されない)。
それが、いつのまにやら「自分」(自らという区分)が生じ、自律した個人として生きるようになる。自らが自らにとっての臣下 = 主体(sujet)である構造が成立する。

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#「自らが自らにとっての臣下」――「自」と「己」という語の区分を設け,能動的(主体的)な立場にある側を「自」,受動的(客体的)な立場にある側を「己」と呼ぶことにしよう(cf.W.ジェームスの「主我」と「客我」の区分).
しかし,「自」が「主体的」な立場にあることも,そもそもナニモノかの命令により「受動的」に「させられ」ていることかもしれない.
そのナニモノかの位置づけに応じて,自‐己のとるスタンスが定まる.例:私は本当はこうしたかったんじゃない.だけれども父が(母が)!

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己を律する自らは、いまや自分の「なか」にあるものとして想定される。しかし「過去」において、それはたとえば具体的な両親であり(すくなくとも「自分」が成立して以来の)自分にとっての「他」なるもの、他者であった。
自分をもつヒトは、自分と他のヒトを区別している。自-他を隔てる隔壁の「なか」にある「ココロ」をもち、己のなかの「ココロ」の働きにより(己のものである意思や感情や欲求にしたがって)行動する。
神経症的症状においては「律する自」と「律される己」との隔たりが問題となる。
たとえば強迫症状において、安全のためにガスの元栓を閉めたか否かを確認すること、清潔のために手を洗うこと、そのとき、その主体は周囲(ひいては自分を含む世界)の状況をコントロールする主体としての立場にある。
しかしそれが己の意のままにならぬとき、その主体は自分を超えたところにある「なにか」に衝き動かされている。その「なにか」に服従し、あるいは反抗する、反抗しながら服従している、こうした主体のありかた;自分というドメインの主権を巡って「他」なるものとの闘争状態にある在り型、これが神経症的主体(とくに強迫神経症的主体)のありかたといえよう。
またヒステリー者においては「ふるまう」こと、「みせる」ことが問題となる。その「ふるまい」において、ヒステリー者は「他」なるものの視線へ捧げられている。あるいは、その「ふるまい」は「他」にたいする訴え、告発でもある。ここにおいても自分をめぐる「他」との関係が問題となる。

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いずれの主体においても、そこにはすでに「主体」ないし「自分」が成立している。
そのドメインがあるからこそ、そうした国境が確定されているからこそ、あらためて「自−他」の関わりが症状=徴候化されうる。

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一方、この考えにもとづくなら、精神病的なヒトのありかた、たとえば「させられ体験」や「思考伝播」などの症状にみられるありかたは、精神病的なあり方においては、もとより自分という領域が成立していないこと、その境界がないことの顕われであると解釈できるだろう。
また,自律の要請にこたえるためには他とはひとたび隔てられた自-己というユニット、自分という領域、ひいては「ココロ」が要請される。
逆にいえば自分というドメイン、自-己の構造が不成立であるならば、自分の「なか」に位置づけられる「ココロ」がない。ゆえに己の「ココロ」について自ら識り自ら語ることもできない。これが、古典的な精神病者にあっては「病識」がないといわれたことの、その要因であったのだろう。