精神病と神経症,ユング

フロイト神経症理論は神経症の実体に適合していることは抜群だが,神経症患者を神経症患者たらしめているかれら特有のもののみかたに依存しすぎている.…….じつは神経症は日ごとにあらたに生産される,それもまさに神経症患者が自分の神経症理論によって正当化できるような考えかた感じかたをする,といった誤った姿勢によって生産されるのである.

ユング『変容の象徴』ちくま学芸文庫版,下,p.258


われわれは幼児の追憶に沈みこんで,現在の世界から姿を消す.暗黒の闇のなかへ落ち込むようだが,そこで思いがけない別の世界の幻をみる.そこでみる「秘儀」とは原初的イメージの宝庫である.これはだれでもが人類の贈りものとしてもって生まれてくるもの,本能独特の生得の形式の全てである.この「可能態」のプシュケーをわたしは集合無意識とよんでいる.心のこの層が,退行してきたリビドによって活性化すると,生の更新と同時に生の破壊の可能性が生じる.…….進入してきた無意識の内容を同化する能力が意識にないことがあきらかになると,危機的状況が生じる.すなわち新しい内容が本来の混沌とした古代的な形を保持して,意識の統一をはじきとばしてしまう.その結果生じる精神障害を,その特徴から精神分裂病と名づけている.

ibid.pp.236-237.


人間の精神には,生物学でいう「行動様式」にあたる,普遍的定型的な行動方式がある.このアプリオリに存在する生得的な形式(元型)が,異なる個人の内部にほぼ同一の観念または観念の連関を作りだすことがある…….プシュケーの基本構造は世界中どこへいってもほぼひとしいのであるから,たとえば一見個人的な夢のモティーフでも,どこかで生まれた神話素と比較することは可能なのである.

ibid. p.80.


本書を書きつづっていた1911年ごろ,ユングはまだフロイト精神分析運動の旗手として活躍しつづけていたが,その一方で,自らとフロイトとの違いが大きくなりつつあることも感じとっていたという.そのあらわれとして『変容の象徴』ではフロイトの論にたいする考察がなされる.そこでの論点の核のひとつは,神経症分裂病(精神病)の境界と,その病理についてであるようだ.

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精神分析は(精神療法ないし理論として)あくまで神経症をターゲットとし,精神病は適用外であるとされる.いくつかの文献を参考に素描すると,以下のようになる;

神経症は「自律」「自己責任」を旨とする「近代的主体」としてのスタンスを現にとっている主体の病である.その主体にあっては「自律」とパラレルである「自己の内面の独立性」(他人からは窺い知ることのできないココロが自分にはあり,自分の言動は自分のココロが決定する(するべきである)という認識)は保たれている.

一方,精神病者では「自律」や「自己の内面の独立性」という能力ないし認識が脅かされ,崩壊する.これは精神病者にあっては「近代的主体」の成立が何らかの理由でなされていないことによる.

精神分析の根底にある理論,すなわち,エディプス・コンプレクス,およびそのプロセスを経ての「父との同一化」=「超自我」の成立(=私を律する「父」の内面化)によって,個人は社会の規範を自らのものとして自律的にふるまうことが可能になるという想定,この想定がそもそも神経症的主体のありかたと密接にリンクしている.ゆえに,そうした理論を基礎とした精神分析は,そうした理論の枠外にある精神病者をとりあつかううえでは不十分なものとなる.


参考文献:内海健「分裂病」の消滅―精神病理学を超えて