彼方への疾走,世界の果て

あさひの最後の疾走と同時に想い起こされたのは「妖精族のむすめ」のラストシーンである.むすめのほうに振り返らないという描写はないが,むすめも決して振り返りはしなかっただろうと思える.あと,彼女らは故郷へ帰る喜びに満ちていて,むすめは生まれ育った沼地へ,あさひはあの日出会った彼方の胸の中へ,跳ねてゆく.つまり,彼女らはともに人間に化けたものたちであったが,彼女らが走る爽快感において,その行き先が妖精の世界であるか人間の世界であるかはたいした問題ではなかったことに,このとき僕は初めて気付いたのだった.

(疏水太郎「龍神四方山話」(20041021)〈http://d.hatena.ne.jp/sosuitarou/〉)

走ること,「最後の疾走」にかんして,ソマミチがおもいだすのは「エレンディラ」のラストシーンである(G.ガルシア = マルケス「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じがたい悲惨の物語」『エレンディラちくま文庫).
「彼女らが走る爽快感において,その行き先が妖精の世界であるか人間の世界であるかはたいした問題ではなかった」
ただ駆けてゆくエレンディラ

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「むすめ」にしろ,「あさひ」にしろ,その疾走の先は「あの日」,すなわち過去だ.それは「いまはもうない」しかし「かつてはあった」場所だ.彼(女)らは,その失われた時空の住人だった.そして疾走の果てに「失われたもの(へ)の回帰」が語られる.
#エンディングへの到達は,疾走に目的(ゴール)と終り(エンド)をもたらす.それは疾走の,そのものとしての鋭さを“やわらげて”いるようにおもう.
一方、「エレンディラ」の「過去」は「目的地」ではない.疾走の果て・目的地も示されない.その先のエンディングは「どこにもない」.
#終末 = 目的 = テロス(エンド,ゴール)のない,鋭く純化された「疾走」.

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cf.フロイトナルシシズム入門」「自我とエス
大塚英志『少女民俗学』とくに第4章「〈学校〉――束の間の無縁の場」

■追記
「妖精族の娘」では,ラスト,「むすめ」の疾走ののち,「わたし」が登場する:

「その晩わたしは,人間界のことをすっかり忘れ果てて,沼のふち近くにたたずんでいた.あちこちの危険な淵から沼の火が踊り出てくるのを見た.かれらはとても多くの群れをなしてひと晩中ずっと姿をあらわしつづけ,沼の上ではしゃぎ,踊りくるっていた.
 だからわたしは,その晩たまたま妖精の血を引く者たちのあいだで,なにか大きな喜びごとがあったのだと,いまも信じている」

この「わたし」という視点や、この作品における「魂」の位置づけは,とても興味ぶかい.