手紙/呼びかけ

Web上にかぎったことではなく,日記的な,プライベートなテクストは,「書かれる」ということにおいて,すでに「読まれる」ことを想定している.
しかし,テクストとは原理的に「いつも・すでに」読まれるものなのだとしても,プライベートなテクスト,ワタシのカケラ(ハーフライフ?)をオンラインで放置すること,そのカケラが「電子の海」を漂流するままにすること,それにともなう船酔い感は,オフラインにおいて日記を記し,それを机のなかに保管することの気恥ずかしさよりも,はるかに意識的だ.

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いとうせいこうノーライフキング』のラストでは,「ワスレナイデ,ハーフライフ」という呼びかけの声に対し,無機の王(ノーライフキング)は彼らの一人一人をいつか必ず召抱えにやってくる,という確言あるいは予言が提示される.
Web上で日記を書き綴ることは,無人島から瓶詰の手紙を送りつづけることに似ている.瓶詰の手紙は,あてどない = 宛てのないもののようでありながらも,それは,それでも「手紙」であり,「誰か」にたいして宛てられたものである.

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――ぼくのこえがきこえるかい? ぼくのなまえはホル.
――かわいそうな,かわいそうな私の弟,ホル.
エンデの『鏡のなかの鏡―迷宮 (岩波現代文庫)』は,アリアドネミノタウロスの物語であるようにおもう。

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このような引用のテクストやそれによる織物は「いつか・どこか」の読者を宛てにしている.だから「引用」と「手紙」は似ている.それは「いつか・どこか・だれか」に宛てられている(それはワタシのカケラでもあるのだろう).

 ジジェクによれば、「手紙は宛先に届かないこともありうる」というデリダの批判は、あまりに「常識的」――つまりは経験的なものであり、ラカンのテーゼの誤解に基づいている。というのも、ラカンは手紙が経験的な意味で必ず宛先に届くなどと言っているのではないからだ。
ジジェクの解釈では、たとえば無人島から瓶に入れた手紙を海に流すという極端な例の場合でも、それが実際にはいかなる経験的な他者にも届かない可能性が大きいにもかかわらず、それは海に投げ込まれた瞬間に真の宛先である「大文字の<他者>すなわち象徴的秩序そのもの」に届くというのである。
 これだけではデリダの論点を強化することにはなっても突き崩すことにはならない。デリダはまさしくそのような象徴界の論理――超越論的シニフィアンの自己回帰というトリック(超越論的シニフィアンは、経験的次元では不在そのものであるからこそ、決して破損することなく起源=目的地に回帰する)に基づく論理を批判しているのだから。
浅田彰ラカンアルチュセールデリダ――ジジェクの『汝の症候を楽しめ』をきっかけに」
http://www.kojinkaratani.com/criticalspace/old/special/asada/010801.html