マインド

マインド―心の哲学
心の哲学”入門書.前半は心身問題にかんする議論が手短に紹介されていてうれしかった.後半は心身問題にかかわるさまざまな問題が紹介されているけれども(自由意志,知覚,無意識,自己など)入門書であるためか少々,かたすかしをくった感がある.ともあれ値段のわりに充実した本だった.学習参考書的にキャッチーで明解なのがうれしい.訳者は『心脳問題』の著者のお二人.
以下,ながながとまとめ等.基本は訳者解説より.

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心と身体との関係にかんする問い――心身問題.心身問題にかんする有力な考えには二元論と唯物論とがある.
二元論:世界には物理的なものと心的なものが存在し,両者は互いに相容れない.
唯物論:世界には物理的なものしか存在しない.
心身問題の最大の争点は「心的なものは物理的なものに還元できるか否か」という問いであり,ここで「還元できない」と答えれば二元論者,「還元できる」とするなら唯物論者となる.

心身問題は,次のような前提にたっている:人間は心と身体の両方を備えている.身体や脳は物理的なものであり,意識や感覚は心的 = 非物理的なものである.物理的なものと心的なものは互いに異なる性質をもつ.とすれば,これらはどのように関係しているのか.

サールによれば二元論,唯物論はいずれも誤りである.そもそも心身問題における「物理的なもの / 心的なもの」という区別がそもそも誤っている.誤った前提のもとに議論をすすめているからこそ二元論,唯物論といった誤りが導かれる.

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サールは物 / 心の区別を拒否し,以下の区別を用いることで心身問題を解こうとする.「心的なものは物理的なものに還元できるか否か」という問いは以下の区別が適切になされないことによる擬似問題である:

1)因果的な還元 / 存在論的な還元
因果的還元:タイプAの現象をタイプBの現象に因果的に還元できる = タイプAの現象のふるまいが完全にタイプBの現象のふるまいによって困果的に説明され、かつ、タイプAの現象がタイプBの現象を引き起こすさまざまな力のほかに因果的な諸力をもたない.(例:固体性は分子のふるまいへと因果的に還元できる。固体状の物の性質は分子のふるまいから因果的に説明でき、固体性は分子の因果的な力のほかに因果的な力をもたない).
存在論的還元:タイプAの現象を存在論的にタイプBの現象へと還元できる = タイプAの現象はタイプBの現象にほかならない.(例:物質的な物は分子の集合にほかならない.日没は太陽に対する地球の地軸における自転によって生み出される感覚上の現象にほかならない.)
( → [メモ]消去的還元)

2)一人称的な存在論 / 三人称的な存在論
存在論 ontology,存在論的 ontological.
存在論とは「あらゆる存在者に共通の特徴や条件を探究する哲学の部門」である(訳注より).一人称的な存在論 / 三人称的な存在論のちがいは以下のようになる:
一人称的な存在論:「一人称的・主観的」な観点から存在者をみること.(例:色の経験.コウモリの感覚.いわゆる主観的・一人称的・意識的な現象.)
三人称的な存在論:「三人称的・客観的」な観点から存在者をみること.(例:色の経験を成り立たせるニューロン.コウモリの感覚や生態の客観的なありよう.これらは知識として人々のあいだで共有され,科学者たちによる共同での研究の対象となりうる.)

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サールによれば,心的なものは物理的なものに「因果的には還元可能であるが,存在論的には還元不可能である」.因果的に還元可能とは,意識や感覚などの現象はニューロンシナプスにおける神経生物学的なプロセスを原因として生じる.心的なものは因果的には神経生物学により完全に記述可能なのだ,ということである.
存在論的には還元不可能とは,すなわち以下のことである:「心的現象は一人称的な存在論を備えている。つまり、心的現象は、ある人間や動物の主体によって経験され、ある「私」がそれを経験するかぎりにおいてはじめて存在するという意味で一人称的だ。心的現象はどんな三人称の存在論にも、つまり、経験する行為者から独立したどんな存在様態にも還元できない」.
たとえば,コウモリにかんするあらゆる客観的な知識をもつ研究者にもコウモリがもつ経験そのものはわからない.この研究者に欠けているのはコウモリにかんする三人称の情報ではなく,コウモリがもつ経験,コウモリの意識における一人称的な現象である( → [メモ]心的現象と存在論).コウモリは「コウモリであるとはどのように感じることかという経験」とかかわりをもつ.この経験は意識的・一人称的なものごとであり一人称的な存在論(記述)においてのみ成り立つ(把握される).世界にかんする三人称的な記述は一人称的なものごとをとりこぽす.ゆえに一人称的なものごとにかんする三人称的な記述(存在論)は不完全とならざるをえない.

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以上をふまえて,サールは二元論,唯物論を以下のように批判する.

唯物論は正しくも次のように主張しようとする。つまり、宇宙は全体的に力の場に存在し、しばしばシステムに組織される物理的な粒子からできている。しかし、最後には存在論的に還元不可能な心的現象はないと誤って主張する。二元論は正しくも、還元不可能な心的現象があると主張しようとする。しかし、私たちみながそこに生きているふつうの物理的世界とは独立したなにかが存在し、それは物理的な実体「とは別の」なにものかであると誤って主張する。

ここで前提となっている伝統的な区分にしたがえば,たとえば「還元不可能な(主観的・質的)心的なものはたんに物理的世界のあたりまえな一部分にすぎない」といった自己矛盾を述べることになる.そこでそれぞれの見解の正しい部分を提示し、間違った部分を否定するためには伝統的な区分を廃さなければならない.

唯物論者は「意識とは脳過程にすぎない」と言う。私も「意識とは脳過程にすぎない」と言う。だが、唯物論者が意図しているのは、質的・主観的・一人称的・非現実的で、触れ合って感じあう現象としての還元不可能な意識は現実には存在しない、ということだ。あるのはただ三人称的・客観的な現象だけである。しかし、私が意図したのは、質的・主観的・一人称的・非現実的で、触れ合って感じあう現象としての還元不可能な意識とは正確に、脳内で進行している過程であるということだ。二元論者は「意識は三人称的な神経生物学の過程に還元できない」と言う。私も「意識は三人称的な神経生物学の過程に還元できない」と言う。しかし、二元論者はこれを、意識は通常の物理的な世界の一部ではなく、それとは別のなにかだという意味で述べている。私の意図は、意識とは因果的に還元できるが存在論的には還元できない、ということだ。意識は通常の物理的世界の一部であり、それとは別のなにかではない。

すなわち,心的なものは物理的なものに,因果的には還元可能であり,存在論的には還元不可能である.

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サールは自らの立場を「生物学的自然主義」と称する.意識などの心的現象は因果的には完全に還元可能である:胃の消化や生殖細胞減数分裂同様に「自然現象」の一つである.それゆえ現代の科学的知見による整合のとれた説明を与えてゆくことが可能である.とする点で「自然主義」である.
また心的現象を考える【因果的に解明する】うえでは,コンピュータによる比喩や行動主義的心理学,社会学的,言語学的なやりかたではなく,生物学的なやりかたを採用するべきだという点で「生物学的」である.