美術館と山歩き

先日の日記の疏水さんのコメントにかんするメモ(あまり文章になっておりません).

  • -

「雑多に描かれたあるいは配置された図像」は「ストーリーをつけて説明してやらないとうまく伝わらない」.ここで「配置につけるストーリー」はたとえば「美術展のガイド音声に類するもの」である.ある「情報のまとまり」は「配置」と「ストーリー」と組合せによって表現・伝達することができる.このとき「配置」は「情報のまとまり」を「なんとなく俯瞰的に」伝える.一方,ストーリーは(情報のまとまりを)明瞭化する:「雑多な図像的世界をストーリー化する」ことにより(情報の)「明瞭化」「説明」がなされる.

  • -

疏水さんのコメントはこのようにパラフレーズすることができるだろう.ここで「図像【icon,Ikon?】の配置」は「美術館」【その絵の配置】に喩えられる.一方,配置は情報を「俯瞰的」に伝える.ここに(おそらくは文脈を逸れたところでの)違和感と興味を覚えた.

      • -

「美術館」のなかを巡る.そこに配置された個々の絵(図像)をみてまわる.このことは配置や図像を「俯瞰」することとは異質であるようにおもう.
ある配置を「俯瞰」すること.そこには,その配置の「全体」を余すことなく一望のもとにしているという意味合いを感じる.たとえば,ある美術展にかんするカタログを眺めている;美術館の「平面図」と展示作の「配置」とを眺めているとったニュアンス.その美術展はいわば「地図化」「平面化」され,一望のもとに置かれる.
一方,「美術館」のなかをさ迷い歩きながらさまざまな「図像」に驚き興じることを考える.個々の作品を前にして,ときに「ガイド音声」の説明をうけながら,私はいま眺めている作品が何であるのかを理解する.あるいはまた「上をごらんください」「下をごらんください」「右のレバーを引いてください」などの指示に従って作品を体験する.それにより作品を(ある型に従って)理解した・観賞したと云いうるような体験を得ることになるだろう.ともあれ,こうした事態は「俯瞰」(いわば平面化?)とはほど遠いと感じる.

  • -

なお,個々の作品はなからずしも「前」にされるわけではなく,たとえばその「中」に私たちがいることもあるだろう.「美術館」という語にソマミチが感じたのは,なによりもこの「中」にいるという感覚である.クジラの胎に呑みこまれたピノキオのように.
「中」にいるという感覚と「俯瞰」ということからは,山野をさ迷い歩く体験を連想する.山野をさ迷い歩くとき,私は木立や茂みの「中」にいる.そうするうちにポッカリと視界がひらけて,たとえば私は自分が暮らしている街の風景を「俯瞰」することだろう.しかし,そのとき私は,いま私がその「中」にいる山野そのものを「俯瞰」しているわけではない.

  • -

俯瞰的とはいっても「全て」を俯瞰する視点に立つのではなく,その視点はやはりなにかの「中」にある.そこで俯瞰されるものは「ある情報のまとまり」であり,その「まとまり」がときに「全体像」と称される.
【「情報のまとまり」とそれを把握する「自らの立ち位置」を,それぞれ「周囲の空間(世界)」と「その中心(原点)」に設定するのか,それとも「情報のまとまり」はあくまで「平面」に擬えたうえで,自らの位置はその次元を超越した場所(たとえば平面より「高いところ」に設定するのか,その違い】

          • -

その他,「図像」や「明瞭化」というキーワードからは,論理学や数学の証明にかんしてカントが述べていることを連想します.(記号化もひとつの図像化であり,記号化によって,私たちはその正しい推論の論理展開の正しさを「見て」わかるようになっているのだ,といったお話し).
が,とりあえずはこのあたりで.

            • -