お金と現実

悪いのはすべて周囲のうす汚れた環境で,自分だけは清らかだという前提のナイーブさ.いざ根底にある生々しい心情を吐露してみれば,そこには‘金の切れ目が縁の切れ目’を体現するような自分の姿が在り,その醜さ浅ましさ疎ましさを看て取り,動揺する.

精神分析ではお金と糞便は象徴として等価である.この象徴等式によって表現するならば,‘まさか自分のハラワタのなかには糞便の類いはないであろう.仮にそうしたものがあるにしても,それは黄金の美しさをもつものであろう’と夢想していたところが,いざハラワタを暴いてみると,そこにあるのはどこにでもあるような,悪臭ふんぷんたる糞便であった,といったところであろうか.

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お金には個別的な人生や時間を等しい単位に翻訳するという側面があるようにおもう.お金は一つの普遍言語だ.マザータングを共有しない者同士でのコミュニケーションは,たとえばお金のような普遍言語によるほうがスムーズにゆく,という考え方もある.

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子どもの歓心をお金で買おうとする大人がいて,子どもはその大人のことが大好きである.もちろんお金も好きである.その子どもはその大人のことが,他ならぬその大人だからこそ好きだったのだろうか.それとも好きなものはお金だからとりたててその大人でなくてもよかったのだろうか.よくわからない.そしてよくわからない以上,私としてはやはりその大人ではなくてその大人がくれるお金のほうが好きだったのだろう.
お金は個別性を――代替不可能性を捨象する
【そういえば,リアルに対比して言語を批判する論も,おなじような論旨であるようにおもう:言語はリアルのもつ豊饒さ,‘言葉にならないもの’を切り捨てる】
だけど,それはまた別のお話.