人形と私

ベルメールの人形(というよりも人形の「写真」)にはポルノめいた、あるいは猟奇殺人の現場めいた雰囲気があるという。ベルメールの人形(写真)にはなにか‘スカートの中をのぞきこんでいる’ような感じがある。
人間と人形との関わりのなかには「みる−みられる」の関係がある。たとえば人形の視線を感じることがときにあるように。あるいはベルメールが「人形のテーマのための回想」のなかで示したように.

そのうえ内部にだってどうして情け容赦もあるものか,ツンとおすましをした少女の物思いを一枚一枚ひんめくって,その底まで見えるようにする.臍の穴から覗けるようにするのが最上だが,腹のいちばん深い底までパノラマのように五色の電気照明で照らしてやるのだ.――これこそが解決ではないか?
「人形のテーマのための回想」『イマージュの解剖学

人形が〈眼〉をもっていれば人形と「みる−みられる」の関係に陥るには十分であるだろうか。
たとえば絵画に〈眼〉を備えた人物が描かれている状況を考えてみよう。その絵画と「みる−みられる」の関係に陥ることは、人形とそのような関係に陥ることに比べて稀であるようにおもう。人形には「みる−みられる」関係に此方を誘う要素がある.それは人形が三次元のマッスを備えていることによるというだけのものでもない(たとえば彫刻のことを考えてみる)だろう。とすればその要素はなにか。

#メモ:内部のメカニズム――メカニズムは内部に位置づけられる.メカニズムのメンテナンスのために〈内部〉が暴かれる.隠されているものが暴き出される.隠蔽するものは「覗く」ための前提をなす.
(では「衣装」とは隠蔽するものなのだろうか.そのような意味づけもできるだろうが,それで事タレリとするには少々抵抗がある.――「たしかに少女たちは薄気味が悪かった.彼女たちはほとんど指一本動かさずに,薔薇色の襞をちらりとそよがせるだけで,魔法を解かれた自己観察の光の中では厚かましく寸法が誇張されている陰気なズボンと陰気な靴をはいた実にありきたりの少年にひとを変身させてしまうのだった」.薔薇色の襞,たとえば「穴模様を散らした白糸刺繍の下着やふんわりいたフレア・スカート」).