オートポイエーシス(2)

今の時点での理解: オートポイエーシスの特徴は生物じみたシステムを「入力も出力もない」ものとして把握することにある。そして、そこでは「システムの作動を内的に捉える」視点がとられる。
一方、従来のシステム論はシステムの作動を、システムの「外」にいる「観察者」の視点から記述する。たとえば、システムには「入力」と「出力」が想定される。それらの要素はシステムと「外」との通路ないし‘出入り口’を前提としているが、システムと「外」とのやり取りを観察し記述する視点は、(必然的に)システムとシステムの外部をともに俯瞰する場所に立つことになる。
オートポイエーシスの視点はおそらく(以前より指摘されているようであるが)現象学の視点に近い。


#いまのところ、現象学を以下のような試みとして理解している:(1)‘一人称的視点’の視野にあらわれる世界を把握ないし記述する試み(主体と客体とを1つの平面に位置づけて俯瞰する神のごとき観察者の視点をとらない)であり、(2)その際、現象学的還元を行う(すなわち日常の生活において既に与えられている概念はひとまずおく。たとえば「コーヒーカップがみえる」「パソコンがみえる」という把握をしない。そのような把握ではすでに‘辞書’が前提されている;すでに成立している世界の事物のリスト(一覧表)、すなわち‘神の視点’から把握された世界像が前提されている)。

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今年の秋から冬にかけて、学校では生理学の授業があった。そこではホメオスタシスやネガティブ・フィードバック機構にはじまり、伝達関数、ゲイン、制御系と被制御系といった(第一世代)システム論的な用語を用いて循環系や呼吸器系の生理・制御機構が解説された。

生理学のある教科書には、循環系の調節をなぜ‘システム論’的にモデル化するとよいのかが説明されていたと記憶している。循環系すなわち心臓と血管(そこでの血液の流れ)は、互いの状態が互いに影響を与え合うという、まさに‘循環’した作用関係にある。ゆえにその作動を把握するときには‘心臓’と‘血管’というブロックにあえて区分し、それぞれの入力‐出力関係(関数)を把握し、そののちにブロック線図を構成し、要素間の作用関係を考慮にいれてモデル化するという。単純にいえば、全体を要素に分けることであらためて全体が分かるようにする。

第一世代システム論は、生物学や工学において実際にツールとして用いられているようである(第二世代のそれについては寡聞にして知らない)。
第三世代システム論――オートポイエーシス論は、どうなのだろうか。たとえばルーマン社会学をはじめ、認知科学、神経生理学、法社会学、精神医学などの領域への‘応用’があるとされるが、実際はどうだろうか。

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漠然とであるが、‘空間的に分離’することを前提したものでないシステムの記述を工学的に応用したり数学的にモデル化したりすることは難しいとおもう。システム論の工学的応用としては、たとえばネガティブ・フィードバック制御などが思い浮かぶ。それに対して、オートポイエーシス的な機械、「入力」と「出力」とを想定できない機械、すなわち「外」とのチャネルがない機械は、「外」からの操作の対象となりえず、したがって「外」から内部の状態を解析するようなモデル化もできず、また、ニンゲン様の意のままに役に立つような機械とはなりえないようにおもう。

【このような着想は、オートポイエーシスのシステムにおける「内部」と「外部」とを物理的な空間における「内部」と「外部」と取り違える、という誤解によるものとも思うが】【オートポイエティックな機械を作るとして、その設計図はどうなるのだろう。設計図というとプラモデルのような解剖学的な設計図を思い浮かべるが、そうしたものとして記述可能だろうか。
 設計図を、解剖学的図譜ではなく、組み立ての手順を記したものと考えればよいかもしれない。そもそも(解剖学的)構造と(生理学的)機能のモデル化を同じものとして論じているのは話をシンプルにしすぎているようだ(たとえばコンピュータ、あるいはWebについて考えてみる)】

定まった設計図にもとづく、外からの入力に何がしかの変換を与えてそれを出力とするような‘機械’としてモデル化することにオートポイエーシスのシステムは抗う。それゆえに工学的な応用は困難だろう。

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オートポイエーシス論は、システムなどのカタカナの用語といい、生物学の知見に依拠していることもあり、どこか‘理系’の香りがする。しかし実際はかなり‘文系’な(工学や農学など、産業的な応用にすぐに結びつかない)ものにおもえる。「オートポイエーシスの個別領域での展開は、社会科学系を中心にかなり進んでいる」ということであるが、逆に(現時点では)そうした領域においてしか展開できない論であるように感じる。