言語/自己

ナルシスの鏡.やせ衰えてゆくエコー.エコーの声は死者の声.

私は自ら己(その内面)を言語(鏡)によって把握する.しかし把握されたそれは私そのものではない.そもそも「私そのもの」という想定が言語の罠である気がしてならない.
それを「罠」だということ,それこそがまさに躓きのもとのようだ.「誰か」のシッポを追いかけて回る犬.ユープケッチャ.

「虚構」の物語につき動かされて「現実」の私たちが感動の涙をこぼすとき,「虚構」は「現実」の力をふるっている.その力は「現実」の私たちにとってけして「虚」なものではない:「虚構」は「存在」する.ゆえに,「虚構」を「虚」として「現実」からシンプルに排除することは,「虚構」が「リアル」にもっている「力」を度外視する点で,「現実」から遊離した考えになるだろう.

(何をさして「存在」や「現実」という言葉を用いているのだろうか)

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「虚構」と「現実」との対立,それは「真」と「偽」「本当」と「嘘」との対立につながるだろう.「虚構」が問題視されるのは,ある出来事が伝達され・物語られたときに,その内容が「本当か嘘か」(「現実」に一致しているか否か)を問題視する場面においてであるようにおもう.

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ふと,金井美恵子の小説をおもう.