唯物論あるいは原子論,還元主義的思考について

▼2004/10/17 (日) 13:46:05
精神的なものは幻想にすぎず「本当に在るのは」原子の配列と物理法則に過ぎないという思考について.
Aという原子の配列によって(あるいは対応して)A'という精神現象は一意的に生起する;Aという(客観的な,オブジェクトな)原子の配列を再現することでA'という(主観的な,サブジェクトな)精神現象は「そっくりそのまま」「一対一対応で」再現される.

※主観的,サブジェクト:ここでは「ヒポケイメノン」「基体」というより,「個人の思いなし」「「私」だけが知覚しているところの「現象」あるいは「映像」「幻想」」というニュアンスで用いている.

→ とすれば,自由意志,主体の意志決定による行為選択,その是非について云々すること―― いわゆる形而上学的な言説、あるいは「心」や「精神」についての語らいは、実用的な意義をもたない無用の言葉,知的遊戯にすぎないのではないか? 

しかし一方、そうした考えは,原子や物理法則を(すべての原因であり本質である)「真実在」として,精神や自由意志、主体性といった「見かけ」から峻別するという、ひとつの「形而上学」であるように思う.
現に「われわれ」は「精神という牢獄」に囚われて生きている。感情について語り,行為について主体の責任を問うような社会のなかで、人間関係のなかで「生きて」いる.それが「現実」である。それなのに精神や自由意志はただの「見かけ」であり実在しないというのは,上記の「現実」を無とみなすことではないだろうか。

そしてまた、精神や自由意志をただの「見かけ」や「幻想」「無」とみなす言説の背景には、次のような動機があるように感じる;そこには感情や意志を排したいという欲望,ロボット化したいという欲望の表現が見て取れるように考える.それは,死,モノになること,物化すること,解脱することへの欲望ではないだろうか.

cf.科学と現象学,実験観察(および科学技術の恩恵の享受)による現実感、現前あるいは反復可能性(同一律

▼2004/10/17 (日) 13:57:44 補記

※「よって」なのか「対応して」なのか …… 因果論なのか並行論なのか.因果論的に考えるならば,因果系列のどこかにおいて,物質的なものが精神的なものに「直接」影響をおよぼす(ビリヤードの玉のように,ぶつかりあう)ことになりはしないか? 精神的なものは「実在しない」というのに.

※二つの考え:
1:「精神」と「物質」は相互作用する:たとえば,精神的な現象と物質的な布置が1対1対応するとすれば,精神的な現象のレベルで変化を生じることで,物質的なレベルでの事象ないし布置の変化がおこるのではないか。cf.脳の器質的病変による疾患へのコトバを媒介したカウンセリングを用いた介入のもたらす効果など.

2:「精神」は「見かけ」にすぎない:上記のような「誰かの意志 = 精神による介入」もまた,それは「物質」に規定されており,物質の因果法則に「したがって」生起する「現象」にすぎない:実際に起こっているのは原子の相互作用,物理的変化ただそれのみである. → 「意志」や「精神」は「存在しない」.

※しかしまた液晶モニタの仕組みに「よって」画面に映像が浮かぶ.ここで液晶モニタの「内」で起こっているコト(物理的な一連の変化)は――液晶モニタに含まれる「原子」は,「映像」というモニタの「外」でおこるコト(あるいは「外」の視点から視られる,という関係における現象)とは,「直接にぶつかりあうこと」は無いのだが,それでも「原子」が「映像」の「原因」となっているという表現は,奇異なものではないだろう(モニタの動作によって映像が映し出される,と日常的な言語の使用によって表現可能であるようにおもう).