テツガクについて

(テツガク≠哲学)
テツガク者には痛みへの耐性が要求される.痛みへの耐性無くして虚無や傷心について語る資格はない.

あんな痛みすらこらえられなくて,何が,虚無だ,傷心だ.

(『ぼくは勉強ができない』)

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経済学者には(経済学が実際にいかなるものであるのか,それにはかかわりなく)株式投資や会社経営についての能力が,すくなくとも有効なアドバイスをしうる能力が期待されている.
体育教師にはそれなりの運動能力が要求される.

テツガクシャに痛みへの耐性が要求されるのであれば,テツガクはどうやら,痛みに対処する能力ないし理論や技術の体系だと期待されているらしい.テツガクシャは痛みへの耐性をもち(とくに思考や論理によってそれを克服する技術や知恵をもち),またときに側の人間にたいしてその知恵や技術を生かした助力をおこなう.それがテツガクの価値であり,そうしたパワーのないテツガクシャにテツガクをおこなう資格はない.

#テツガクシャ自身にもまた,自らにそうした耐性があるかのように振る舞うという面があるだろう
#痛みや空腹に耐えること,それらを無化すること――テツガクによってテツガクシャは身体から解き放たれる.身体を超越する.

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「空虚がなんとかって,おまえ,言ってたよなあ.今も,そう感じてるか」
「か,か,感じない」
「そうか,良かったなあ.おれたちがついてるもんなあ.孤独じゃないだろ」
「…………」
「あん? 何? 聞こえないよ」
「こ,孤独じゃない……よ」

(同前)

テツガクへの傾向と空虚と孤独はどうやらリンクしている.
痛みを感じること,痛みへの耐性がないこと,それによってテツガクシャは孤独ではなくなる.
テツガクシャもまた痛みを逃れることはできない.だからテツガクシャは(たとえ言動のうえではいくら孤高を気どろうとも)皆と同じ人間,皆の仲間である.そうか,良かったなあ.

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→ 死において,痛みにおいて,あらゆる人は一人じゃなくて皆の仲間になっているようだ.皆の仲間であること,その内部に留まることが要求されているようだ.